ブンブン日記 2001年 7月

2001年7月31日(火)

父が昨夜からハンガー・ストライキをしていると連絡が入り、朝、病院に行く。どうしても病院を出たいらしい。鯖江の自宅近くの病院に転院する手はずをする。11時半、母が駆けつける。ようやく、父の表情が和らぐ。喧嘩ばかりしているが、やはり、母がいると嬉しいんだなと優しい気持ちになる。午後から福井市内を回る。夕方から産業部会。4つある委員会で考える問いについて議論する。雇用問題について、高卒の就職先が激減していることで結果的に非行、犯罪に走る若者が多いという重要な指摘が藤井孝・IBエージェント社長からなされる。知識社会への移行は避けられないが、全員が知識ワーカーになれるわけではない。すべての人が誇りを持って働ける仕組みを考えなければならない。

 

2001年7月30日(月)

福井経済同友会の「新時代のリーダー像を考える会」で松浦正則・松浦機械製作所社長の話を聞く。歴史的な社会構造の変化の中で、日本にしかないもの、日本人にしかできないものを追求するしかない。具体的には、日本人は細かいことが得意なのでナノテクノロジーに特化したらどうかという提言だった。同時に日本にしかないものとして日本列島を挙げられていたのが面白かった。福井県ならば福井県そのものということである。福井県にしかない魅力で世界から人、モノ、金を引きつけるという発想である。モノ、サービスよりもブランドや経験が重視される知識経済の中で、福井県でしか経験できないライフスタイルを提供できれば、それが福井県のコア・コンピタンスになり得る。夕方から「暮らし部会」。大久保恵子部会長や竹本加良子副部会長の行動力を見ていると、先の見えない時代に変革のエンジンとなるのは、やはり女性の感性だと思えてくる。

 

2001年7月29日(日)

朝7時から鯖江市下新庄町で恒例の社会奉仕。浅水川と並行して走るドブさらいである。スペインの松下電器で働いている三田村さんが毎年この時期に帰って来る。「わざわざ、社会奉仕のために帰ってくるのか」と皆に冷やかされているが、どうも、それも理由の一つのようだ。低賃金を売り物にしていたスペイン経済も、工場がどんどん東欧に移転しているため、相当悪くなっているそうだ。ヨーロッパでもユニクロ現象が起きている。11時から参議院選挙の投票に行く。比例代表の候補者にタレントがずらっと並んでいるのを見ると滑稽である。昼過ぎから父の見舞いに行く。酸素吸入の副作用なのか、幻覚症状があるようだ。必死で自分の状況を訴えているが、話のつじつまが合わない。どうも、家に帰りたがっているらしい。夕方、「みさや」で事務局、執行部の合同会議。参議院選挙で自民党が大勝したとのニュースが伝えられる。本当にこれで良いのか。自民党に騙されたことにならなければ良いが。「聖域なき構造改革」の断行を心から望む。

 

2001年7月28日(土)

福井経済同友会の企業経営委員会と「新時代のリーダー像を考える委員会」の合同会議。リーダーシップとは何かについて話し合う。強い理念。人格。カオスの中で異なるベクトルを整列させる能力。どれを聞いても、その通りだなと思う。私の定義は、共感を得ながら目標を設定し、その目標に向ってやる気と力を引き出す能力。面白かったのは、アメリカの映画はリーダーシップを扱ったものが多いという指摘。確かに、ポセイドン・アドベンチャー、タワーリング・インフェルノ、エアポート・シリーズなどいずれも危機的状況におけるリーダーの活躍を描いたものである。しかも、上院議員など社会的地位の高い人が肝心な時にからきし駄目で、日頃は脇役の人がリーダーとして力を発揮する筋書きが多い。幕末の日本でリーダーシップを振るったのも西郷隆盛や大久保利通などの下級藩士だった。自分は日本を混迷から救うリーダーたりうるだろうかと自問する。

 

2001年7月26日(木)

赤坂「たけがみ」で紺野登(株)コラム代表、西浦裕二・日本ブーズ・アレン社長と夕食。紺野氏は、高校時代に一緒にアメリカに行った30年来の友人。こちらがぼやぼやしている間に、ナレッジ・マネジメントの大御所になってしまった。西浦氏とは知人の紹介で約2年ほど前からお付き合いさせていただいている。日本の大手金融機関を裏から支える知恵袋である。不良債権問題から教育問題まで幅広い問題について議論する。紺野氏から、「改革を行うには光速で移動する必要がある。しかし、光速で移動するには閉鎖系だと摩擦が起きる。光速で移動するには流体のような開放系にならなければならない」と助言される。「それは、禅でいうところの『主客合一』ということか?」と問うと、「そうだ」との答え。意味不明だが奥の深い助言だった。

 

2001年7月22日(日)

朝10時より「まちづくり部会」。同部会の中の「まちづくり委員会」で考えていく5つの質問を決める。コミュニティについて議論しているとき、面白い指摘があった。農業社会の「ムラ」というコミュニティは工業社会の中では「会社」に取って代わられた。現在では、「会社」がさまざまな「同好会」に取って代わられている。インターネットはさらにこの傾向を加速する。堺屋太一氏のいう「好縁社会」の登場なのだが、問題は少しでも気が合わないと集まりから抜けてしまうことだという。つまり、自分とウマの合わない人と折り合いをつける技術を磨かざるを得ないコミュニティがなくなってしまっている。すぐキレル子どもたちと関係があるのかも知れない。なお、今週は出張のため、ブンブン日記はしばらくお休みです。

 

2001年7月21日(土)

午後まで自伝の執筆。というより、全体構成の見直し。あれやこれやで時間が過ぎてしまう。午後から父の見舞い。昨日よりは元気になっていた。昨日は突然、病院に呼び出されて駆けつけた。患部からうみを取り出すので立ち会って欲しいとのことだった。今日は熱も下がっていた。喉が渇くのでアイスを食べたいという。スプーンで「氷みぞれ」を食べさせたら、「これはいい」と元気になった。2週間ほどアメリカに帰っていたエド・ミラーと病院近くの喫茶店で歓談。いま、アメリカで最大の話題になっているのは、カリフォルニア選出の下院議員と交際していた女性が失踪している事件だという。問題は失踪した女性と交際していたことではなく、女性の失踪後、警察の取り調べに対して女性との交際を否定したことにあるそうだ。自宅に帰って、衛星テレビのフォックス・ニュースにチャンネルを回したら、確かにそのニュースばかりやっていた。

 

2001年7月20日(金)

海の日。皆、家族連れで海に出かけているのか、福井市内は閑散としていた。いつから、7月20日が休日になったのだろうか。日本は本当に休日・祭日の多い国である。ニューヨークで弁護士として働いている頃、アメリカの祭日が少ないのに閉口したのを覚えている。その代わり、4週間の有給休暇があり、皆、これをきっちり取る。日本はその逆なのだろう。いくら有給休暇があっても、職場に遠慮して全部取る人は稀である。国民の休日になってしまえば、もう、「みんなで渡れば怖くない」ということなのだろう。政府がせっせと休日を増やしたのは、「日本人は働きすぎる」という外国からの批判をかわすためだが、冷戦が終わって、すっかり状況が変わってしまった。日本人より働きすぎる中国人のために日本経済は青色吐息である。これからは、休日の意味合いも変わってくる。ニューヨークの弁護士事務所では、知識ワーカーにはバケーションが必要であるとの信念から、4週間の有給休暇をすべて消化することを強く奨励されていた。せっかく増えた休日である。知識ワーカーの生産性を高めるという観点からの過ごし方も検討して良いのではないか。

 

2001年7月19日(木)

発行が遅れているニュースレターの原稿書き。夕方から建築家の赤土善蔵さんの協力会で講演。協力会というのは、関連企業の集まりからなる親睦団体である。一軒の家を建てるのに様々な業種の協力が必要な建築関係の企業はほとんど協力会を作っている。言わば系列のようなものだが、系列のような締め付けはない。最近、よく話している「これからの日本」というタイトルで話す。質疑応答で外交の話になる。京都議定書の批准問題、ミサイル防衛構想の話が出てくる。そもそも専門的で難しい話なのだが、こういう問題について日本がどのような姿勢をなぜ取るかというきちんとした説明がなされていない。だから、単なるアメリカ追従外交としか見えない。外交に対するフラストレーションがたまるのも無理がない。田中真紀子外相はこうした国民のフラストレーションをうまく煽っているわけだが、もうそろそろ外交責任者としてフラストレーションを解消するための有効な手立てを講じて欲しい。

 

2001年7月18日(水)

父の代わりにお盆の檀家回りをする。私一人でお経を上げていると自然にペースが上 がってしまうのか、時間が随分短く感じる。「少し、早すぎませんか?」と聞くのだ が、「いや、それでいいんです」との返事。檀家の人から曾祖父の話などこれまで聞 いたことのない話を色々と聞かされる。午後、白木千栄子先生、森田智子さん、高橋 きよのさんと歓談。20年前から市民運動を共にしてきた仲間だとのこと。皆さん、本 当にお元気です。夕方5時、西武デパート前で民主党の管直人幹事長が街頭演説。セイフ ティネットの必要性を訴えていたが、民主党は構造改革を推進するのか、反対するの か、いよいよ焦点がボケてきた。夜6時半、SOCO22で異業種交流会の立ち上げを検討 する会議に出席。金沢のケントスで開かれているアイアイプラネッツの福井版を作ろ うというもの。単なる飲み会にとどまらず、ナレッジシェアリング(知識共有)が行 われるようになるのが理想である。

 

2001年7月17日(火)

経営品質協議会の認定更新講習会が福井市内の自治会館で開かれる。1999年度に初めて経営品質協議会の認定セルフアセッサーになって、今回が2度目の更新。セルフアセッサーとは、大雑把に言うと、自社の経営状態をチェックできる人のことである。出席者が多いのに驚く。夕方5時からユアーズホテルで開かれた吉田敏貢アイビックス社長の藍綬褒章受賞の記念祝賀会に出席。福井県内のほとんどの名士が出席するオールスター・キャストだった。その後、片町の「かっぱ」で懇親会。

 

2001年7月16日(月)

終日、自伝の執筆。といっても、週末の疲れが出て、なかなかはかどらない。アメリカ留学の巻をようやく終える。この日、ハイヤー代金水増し請求疑惑で外務省の小林裕武課長補佐(45)が逮捕される。実は、小林課長補佐とは20年前に在アラブ首長国連邦大使館で一緒に勤務したことがある。私が大使秘書で彼が電信官だった。二人とも若かったのでよく一緒に遊んだ。昨年、外務省を訪れたとき、廊下で彼とすれ違っ た。サミットの仕事をしているんだと元気そうだった。この問題の病根は根深い。時事直言でも指摘したように、外務省のキャリアは、「ノンキャリのプロフェッショ ナリズムを尊重する」という風土の中で権限委譲と責任放棄を混同している。責任に は結果責任(Responsibility)と説明責任(Accountability) があるが、外務省は国民に対して説明責任があることをもっと自覚すべきである。

 

2001年7月15日(日)

佐々木哲男県会議員の後援会であるST会主催のゴルフコンペに参加。加賀セントラル・ゴルフクラブ。途中、激しい雷雨に襲われる。それでも、福井地方はこの日、梅雨明けしたらしい。ゴルフ後、鯖江市内の聴琴閣で開かれた懇親会で乾杯の音頭を取る。メガネ枠関連の経営者が多い。メガネ枠の染色に携わっているサンカラーの酒井社長によれば、福井のメガネ業者が生き残る道は、@ブランド戦略とA高技術戦略しかないという。ただし、中国メーカーはイタリアのデザインをどんどん取り入れており、ブランド戦略は苦戦が予想されるという。ちなみに、サンカラーは高級メガネ枠の中国メーカーを狙った染色工程の下請け戦略を展開している。早急に手を打たないと、福井のメガネ産業は壊滅状態になる恐れがある。

 

2001年7月14日(土)

朝10時から県立美術館の喫茶店で「宇野重吉記念演劇館」設立発起人会議。郷土が生んだ偉大な演劇人の精神を生かし、劇団民芸と郷土の若者が交流できるような小劇場ができたら素晴らしい。午後から事務所で自伝の執筆。夕方、父の見舞いに行く。夕方6時半から福井市内の二ノ宮自治会懇親会。転勤族が多い地区なので、自治会があるとは知らなかった。気さくで楽しい人たちの集まりだった。夜9時半、福井県庁の仕事で福井を訪問している松本峻ニューヨーク州弁護士を囲む会に合流。1990年、朝日新聞の取材に応じてニューヨークで松本弁護士と対談したのが、私がニューヨーク 州弁護士になるきっかけとなった恩人である。

 

2001年7月13日(金)

武生市のお洒落な喫茶店「パニエ」で昼食を取りながら武生市選挙推進連絡会議。その後、広小路通りにあるサイエンスクラフトの井上社長と歓談。本業のコンピュータソフト作成より街づくりに情熱を燃やされている。井上さんが街づくりのために展開している「ラピュタ」を、最近、福井最大のショッピングモールであるコパが企画として丸ごと買いたいと言ってきたそうだ。商店街空洞化の張本人であるショッピングモールが、集客のためには何らかの文化的体験が必要であることに気づいているのは皮肉なことである。夕方から金津町で坂井郡選挙推進連絡会議。金津町の「創作の森」は予想以上に成功しているが、金津町民からは大衆的でないとして反発されているとのこと。会議後、春江町の「もとよし」で懇親会。丸岡町の「ほおずき」で二次会。

 

2001年7月12日(木)

参議院選挙が公示される。朝8時半から行われた民主党陣営の出陣式をのぞいてきた。応援弁士の演説を聞く限り、労働組合色が強すぎる。いわく、「右傾化が懸念される」「リストラは断じて許さない」「セイフティネットが必要だ」等々。55年体制そのものである。党代表の鳩山由紀夫は「心の政治」とか相変わらず訳の分からないことを言っている。リーダーシップが欠如しているために、党内の守旧派の主張が前面に出ている。一方、自民党は、小泉首相の「聖域なき改革」を前面に押し出して、党内の守旧派隠しに成功している。つまり、自民党「改革派」対民主党「守旧派」の構図になってしまっている。これでは有権者は何を信じていいか分からない。午後から引き続き鯖江地区を回る。河和田の漆器産業も鯖江のメガネ枠産業もひどい状況になっている。ユニクロ現象は予想以上に進展している。この対策こそ急務である。

 

2001年7月11日(水)

朝、テレビ局のTBSからアメリカ大統領への贈り物は上限3万円とのことだが、調べてもらえないかとの依頼が入る。インターネットの検索エンジンで私を探し出すのか、時々、こういう依頼が飛び込んでくる。あまり、時間を取られたくないので断ろうとしたが、何とかして欲しいと泣きつかれて渋々引き受ける。午後から、鯖江市住 吉町を回る。日野中学時代の恩師の白木千栄子先生を訪ねる。広いお宅に一人で住ま われていた。毎日、2時間草むしりをされるという。どうも、最近は、息子さんご夫婦と同居されない家庭が増えているようだ。白木先生に連れられて、近所の田中きよ子さんのお宅に伺ったが、お子さんはとっくに巣立ち、ご夫婦だけで住まわれているとのこと。お二人によると、いまの姑は、「物分りの良い姑」でなければならないと の意識が強く、同居すると見てみぬふりをしてストレスがたまるのだという。「さぞ、お寂しいでしょう」と人に言われるが、自分の好きなように生活できるほど幸せなことはないとお二人とも意気軒昂だった。

 

2001年7月10日(火)

鯖江地区を回る。大変な猛暑。38度ある。カサモバンキンでは、ご主人が病気で工場が休業中。奥さんが事務所で一人働かれていた。息子さんが得意先を回っているとのことだった。鉄工所を経営している福岡武幸さんの話を聞く。「中小製造業は生産性を上げるしか生き残る道がないが、技術開発のための資金がない。県の補助金は試験開発に限定されており、技術開発が実際に生産に結びつくと、設備投資と みなされ適用外になってしまう」。中小製造業を知識製造業に転換するための仕組みが必要である。すでに様々な制度があるが、実際の適用段階で、役所側の知識不足と申請企業側の人手不足でうまく活用されていない。総論も大事だが、実際には制度の各論が大切である。夜7時半から行財政部会。

 

2001年7月9日(月)

午後3時半より、レミットグループで「これからの日本」と題して講演。北陸3県の不動産関係者の集まり。地方が自立するためには、知識ワーカーの絶対量を増やさなければならない。知識ワーカーが増えれば、不動産を含めた様々な有効需要が創出されるという話をする。講演の後、懇親会と2次会。大枠としてはその通りだが、目先はどうすれば良いのかという話になる。まさしく、これが問題である。5年後、10年後をにらんで戦略を展開しなければならないが、経営者は一ヵ月後がなければ半年後がない。半年後がなければ一年後がない。目先の問題を着実に解決しながら、1年先、5年先の手を打っていく必要がある。経営も政治も、「可能性の芸術」である。

 

2001年7月8日(日)

昨日に引き続いて、自伝の執筆。幼少期を終わって、アメリカ留学時代に入る。初めてアメリカに行ったのが1972年だから、もう29年前になる。17歳の頃である。あの当時のアメリカはまぶしかった。その後、日本が瞬間的に追い越して、80年代は日本の黄金時代。ところが、90年代に日米逆転して、いまはアメリカの黄金時代。再び、日本の黄金時代は来るのだろうか?
 夕方、父の見舞いに行く。火曜日に患部にエタノールを注射したため、熱が下がらない。随分、弱っていた。食欲が一向に衰えないのが救いである。最近の病院はメ ニューを選べるらしい。食事時間も昔は病院側の都合で4時頃だったのに通常の6時に なっていた。若い看護婦さんたちの明るさと献身的な姿勢にも感心させられる。身も 心も大変な仕事なのに有難うございます。

 

2001年7月7日(土)

終日、事務所で自伝の執筆。書き出しに苦しんで、世田谷区立美術館の川口幸也学芸員(高校時代の同級生)に相談したら、「飛ばしたら?」というアドバイス。あとはスラスラ書けた。
 自宅に帰って、アーノルド・シュワルゼネッガー主演の「シックス・デイ」を見る。ある日、家に帰ってみたら、もう一人の自分がいたという怖―いお話。要するに、クローン人間の話ですね。ヒトゲノムの解読が完了したわけだから、理論的には可能だ。近未来には技術的にも可能になるかも知れない。ハリウッドはどんな話でもエンターテインメントにしてしまうから凄い。

 
2001年7月6日(金)

外国法事務弁護士(ニューヨーク州弁護士)として引き受けている住友信託銀行の英語版アニュアルレポートの校正作業で一日過ごす。一見、華やかに見える渉外弁護士の仕事もこういう地味な仕事が多い。
 夜7時から福井市内の明道・順化地区の選挙推進連絡会議。小泉首相のメールマガジンにならって、メールマガジンを発行してはどうかという案が出される。うーん、メールマガジンもいいですね。まだ、早いかなと思っていたけど、世の中が急激に変わりつつあるのを実感する。会議後、「宇野重吉記念館」設立に情熱を燃やしている中尾光太さんの焼肉屋「みさや」で夕食。

 
2001年7月5日(木)

17時17分の加越で福井に戻る。東京は連日の猛暑だったが、福井も同様だったらしい。高校時代の同級生の宗京さんのお嬢さんの裕美子ちゃん(16歳)が1年間のアメリカ留学から帰ってきた。片町の「マリポッサ」(スペイン料理のお店)でお母さんの宗京さんと一緒に帰国歓迎の夕食会。もう、すっかりアメリカ・モードになっている。自分の高校留学の経験を踏まえて、(1)アメリカ社会に適応するよりも、日本社会、特に高校生活に再適応する方が困難であること、(2)アメリカの高校生レベルの英語力ではまだまだ使い物にならないので、慢心しないで英語の勉強を続けること、などとおじさん風を吹かせてお説教する。
 

2001年7月1日(日)

10時から環境部会。環境部会では原発問題を扱う。現在の15基体制を維持するのか、脱原発路線に転換するのか、それぞれのメリットとデメリットを考えながら意思決定していかなければならない。
 12時に父の見舞いのために東京から駆けつけた姉と甥の勇人君が事務所に来る。鯖江の実家に行って母と一緒に昼食を取る。14時7分の加越で東京に向かう。

 
 前の月    次の月    過去の日記 +MENU+  

高木ぶんどう後援会 © 2000-2003 TEL:0776-34-3445 FAX:0776-34-3447 MAIL:web@bundo.com