ブンブン日記 2001年 9月

2001年9月30日(日)

終日、引越しの後片付けをしてヘトヘトになる。昼食に田原町の「トミヤ」でお好み焼きを食べる。段ボールの間をぬいながら、何とかテレビの接続を完了して、4時からベルリン・マラソンを見る。世界新記録の達成を宣言し、全国民から期待される中で、実際に世界新記録を樹立した高橋尚子さんは本当に凄い人だ。終盤、苦しそうだったので、ハラハラしながら見ていたが、ゴールインした途端にけろっとしているので、いよいよ「ただものではない」と感心する。ベルリン・マラソンを見終わってから、鯖江の斎藤病院に行き、母と交代する。隣のベッドからは、長島監督の引退の模様を伝えるテレビの音が聞こえていた。私は父の横の簡易ベッドで早々と寝てしまった。

 

2001年9月29日(土)

朝、敦賀から車を飛ばして福井市に戻り、引越し。自宅に着いたときは、もう、日本商運のトラックが着いていた。生活費を切り詰めるため、後援会の野尻章博さんが所有・管理する3DKのマンション(福井市文京3丁目)を格安でお借りすることにしたものだ。7人がかりで朝9時半から始めて、午後4時までかかった。午後5時半、野尻さんと一緒に三国町陣ヶ丘のおけら牧場に行く。皆が集まるまでの間、山崎一之さんに狂牛病発生のメカニズムについてお話を聞く。要するに、本来、草食動物の牛に、仲間の牛を肉骨粉(にくこっぷん)にして「共食い」させていることに原因があるらしい。神の掟を冒すことで「種体間ブロック」(異なる種の間では病気が移らないという原則)が破られるとしたら恐ろしいことだ。午後7時から、おけら牧場のログハウスですき焼きを食べながら坂井郡連絡会議。東京からたまたまやっってきた女性フリー・ジャーナリストの山本さんの勇ましさが印象的だった。

 

2001年9月28日(金)

「ハーバーナイトin敦賀with高木ぶんどう」を敦賀新港フェリーターミナルで開催する。3階の会場からは敦賀湾が一望に見渡せる。6時に会場に着いたときは、まだ夕焼けに沈む美しい敦賀湾を眺めることができたが、イベントが始まった7時にはもうとっぷりと日が暮れていた。和田稔実行委員長、慶秀利勝事務局長を始めとする皆さんのご尽力で、30代〜50代を中心に60名位の方にお集まりいただいた。実際に福祉活動に携わりたいという希望を持っていらっしゃる女性の方が多いのに感銘を受ける。年老いた親を抱える子として、また、子を持つ母親として、福祉は自分自身の生活と密接につながっている。何か人の役に立つことをしたい。また、それが何らかの形で自分のためになったら嬉しい。でも、具体的にどう行動していいか分からない。そんな思いを強く感じた一夜だった。

 

2001年9月27日(木)

午後、父の介護のために斎藤病院に出かけたら、横浜から叔父(母の弟)が来ていた。父と会話ができないのを承知で顔だけ見に来たと言っていた。母も叔父も中国生まれの中国育ちだが、戦争中に中国で生き別れになった。中国から引き揚げて、福井に嫁いできた母と再会できたのが十数年ぶりのことだったという。母が福井にいるのを知ってからは、毎年のように、夏、南条町の家に遊びに来ていた。何もせずに、ただ、ステテコ姿で畳に寝転がっていたのを覚えている。父の運転するオートバイの後部座席に乗って事故にあい、足を引きずりながら帰ってきたこともあった。当時、20代後半だった叔父も、もう65になる。若かったあの頃の父や叔父に思いを馳せると、人生は一瞬だという気持ちになる。

 

2001年9月26日(水)

倒壊したと思っていたワン・リバティ・プラザが大丈夫だということが分かった。ニューヨークにいる友人からのメールによると、損傷は激しいものの、建物の構造自体には問題がなく、テナントも戻ることが決まったという。小泉首相が現場を訪れた写真の背景にも写っていて、ほっとした。ワン・リバティ・プラザは、もともとUSスティールの本社ビルとして建てられたため、鋼鉄のかたまりのような堅牢なビルであり、倒壊したというニュースが信じられなかった。大丈夫だと聞いて、一度失ったものを取り戻したような安堵感があった。逆に、現在もしくは過去の職場を失った人たちの喪失感は想像するに余りある。 ニューヨーク福井県人会で親しくさせていただいた宮本俊さん(当時、千代田生命勤務。現在、武生市ダイエー社長)は、世界貿易センターで働いておられたので、ニューヨークですごした時間がガラガラと音を立てて崩れ落ちたような喪失感を味わっておられるという。 アメリカ国民が受けた心の傷は計り知れないものがある。

 

2001年9月25日(火)

昼過ぎ、鯖江市吉江町の加藤吉平商店を訪れる。加藤商店は日本酒「梵」の醸造元である。日本商工会議所の理事としても多忙な加藤団秀(あつひで)さんは、11月に小田原で開催予定のビッグ・イベントに小泉首相が今回のテロ騒ぎで来れなくなったといって頭を抱えていた。ブランドづくりについてご意見を伺ったところ、「ブランドづくりに必要なのは、全身全霊で自分の仕事に打ち込むことによって生まれてくる誇り」だという。「梵」をブランドに育て上げた加藤さんならではの言葉だと感銘を受けた。行政にできることは、「ハレ」の場に出してやることだが、「ハレ」の場にふさわしいものを作るのは経営者の責任だとも仰っていた。午後、父の介護。父は個室から大部屋に移っていた。病状は落ち着いている。夜6時半、敦賀市で開かれた中小企業家同友会の例会に出席。その後、懇親会に出席したため、予定を変更して、敦賀市内に泊まる。

 

2001年9月24日(月)

石川県の加賀市で開かれた地球環境会議に出席。ネットワーク『地球村』代表高木善之さんの講演を聞く。高木さんは、日本を代表する大手企業の科学者として環境問題を研究するうちに、環境破壊の現状にいたたまれなくなって退社。徒手空拳で環境保護の重要性を訴えながら、グリーンコンシューマのためのネットワーク『地球村』を立ち上げ、現在では会員10万人の規模にまで運動を広げてきている。大切なのは自分が変わることであり、@まず事実を知る、Aできることを始める、Bまわりに伝える、意思表示する、ことで世界が変わるという高木さんのメッセージは大変、説得力がある。今年の千葉県知事選挙では、候補者の政治姿勢を浮き彫りにする公開アンケートを実施して、草の根運動を盛り上げ、堂本知事の当選に大きく貢献したという。ヨーロッパではすでに、「緑の党」が無視できない政治勢力として存在しているが、今後、日本でも、グリーンコンシューマがこれまでの経済一辺倒の暮らし方、社会のあり方に変更を迫る政治勢力となることを予感させる一日であった。

 

2001年9月23日(日)

1週間後の引越しに備えて、パッキングをして過ごす。これまで、何度も引越しをしているが、引越しの準備ほど苦手なものはない。本を詰めているうちに、ついつい本を手にとって読み出してしまう。ようやく7箱詰めたものの、内村鑑三の「代表的日本人」を読みふけってしまった。夜、NHKの衛星第二放送で、トム・ハンクスとメグ・ライアン共演の「めぐり逢えたら(Sleepless in Seatle)」、続いて、「メグ・ライアン自らを語る」を見る。メグ・ライアンがNYU(ニューヨーク大学)出身と聞いて、親しみを感じる。名優たちの話を聞いていると、ある共通点に気がつく。それは、自分を無にして、役になり切ることの大切さである。そこでは、もはや、演技しているという意識はなく、役の方が自分の体を動かしているという感覚があるようだ。道元が説くところの、「身心脱落(しんじんだつらく)して、身を挙(こ)せば、現成(げんじょう)する」ということか。

 

2001年9月22日(土)

東京にいる姉が3連休を利用して父の介護に駆けつけてくれた。おかげで久しぶりに休日らしい過ごし方をする。話題の映画「千と千尋の神隠し」を見る。宮崎駿監督自身の言葉によれば、「冒険とはいっても、正邪の対決が主題ではなく、善人も悪人もみな混じり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたり」。宮崎駿の作品は、子供が見て楽しめるようにできているのだが、ストーリーの中にちりばめられている隠喩(メタファー)の謎解きをしようと思うと途端に難しくなる。子供たちでなく、大人たちにも生きる勇気を与えてくれる作品である。うちの事務所の長谷川なおみさんはもう2回も見たそうだ。私もお薦めします。

 

2001年9月21日(金)

先週の金曜日に壊れたコンピュータの部品(ハードディスク)がメーカー(ゲートウェイ2000)から届いたので、一日がかりでコンピュータを修復する。コンピュータの画面が突然、青色になったときは、Nimdaにやられたのかと思ったが、よく調べたら、ハードディスクが壊れていた。いずれにしても、これまでハードドライブに蓄積してきたすべてのデータは消失してしまった。幸い、かなりの部分をこのホームページに載せているので、助かっている。夜、芦原町の受験塾の寿学園で中学校3年生の子供たちに「英語は体育」という話をする。深夜、その中の一人からメールをもらった。「こんばんは。今日9月21日の寿学園でのお話ありがとうございました。 私は三国中の剣道をやっている、本田泰菜です。 (席で言うと前から2番目の列のよく先生に当てられた女の子です。) 家に帰って家の人に先生の話と、プリントを見せたらびっくりしていました。 私は初めプリントを見たとき、文房具屋さんかと思いました。 でも、先生は家のお母さんに言わせると未来の知事さんだそうですね。 私もスゴイ人の話を聞けたんだなとびっくりしました。 『英語は体育』はじめは意味が分からなかったけれど、先生の お話を聞いているうち『なるほど』と、思いました。 先生、この言葉知っていますか? 『英語を学ぶのではなくて英語で学ぶ』ということばです。 この言葉は、いとこのお兄ちゃんから教えてもらった私の好きな言葉のひとつです。『英語は体育』この言葉も少し意味が似ているような気がします。なのでこれも 私の好きな言葉のひとつに入れておこうと思います。 もう一度、寿学園にお話をしに来ていただきたいです。 またためになるお話聞かせてください。ありがとうございました。本田泰菜」疲れがいっぺんに吹き飛ぶ嬉しいメールだった。子供たちがすくすく育っていることに感謝。  

 

2001年9月20日(木)

昨日、中国の対応に注目すべきだと書いたが、中国が予想通り、したたかな外交を展開している。まず、いつもは米国の「覇権主義」を批判しているのに、今回はいち早く米国「支持」を打ち出し、唐家セン外相もワシントンに駆けつけている。米中間の経済的な相互依存関係は急速に深まっており、中国が経済成長を続けるには米国との良好な関係が不可欠と判断したのだろう。ところが、日本の自衛隊派遣に対しては、朱邦造外務省報道局長が、「日本が軍事面で影響力を行使することは歴史上、非常に敏感な問題であり、慎重に行動するよう希望する」と釘を刺している。まるで、国際問題は、これから中国がアメリカと一緒に処理するから、日本は引っ込んでいなさいと言っているようである。いま、国際政治の舞台では、21世紀の世界新秩序に向けて、激しい駆け引きが繰り広げられている。ぼやぼやしていると、日本は本当に中国の属国のような存在になってしまう。

 

2001年9月19日(水)

米国の同時多発テロ以後の展開を見ると、湾岸戦争の「プレーバック・パート2」の様相を呈してきている。しかし、当時と現在の国際状況を比較すると大きく異なる点が一つある。それは中国の存在である。湾岸戦争の時は、国際政治のプレーヤーとしてはまだマイナーリーグだったが、この10年間で完全に大リーグ入りを果たしたといえよう。今後の展開の中で中国の出方が大きな鍵となることが予想されるし、日本の対応も中国とのパワーバランスを常に意識したものでなければならない。ハンチントン・ハーバード大学教授によれば、21世紀の世界は文明の種類ごとにいくつかのブロックに分かれることなるという。西洋社会とイスラム社会の対立が先鋭化する中で、日本が対応を誤れば、国際社会の孤児になるか、中国の属国になる恐れがある。「国際社会で名誉ある地位を占める」ためには、難しい舵取りを要求される。

 

2001年9月18日(火)

米国の同時テロを受け、自衛隊法が改正されようとしている。米国の軍事行動に日本がより積極的に協力できるようにするためのものだが、その中で自衛隊の警備対象が、(1)在日米軍、(2)首相官邸などに加えて、(3)原発にも広げられようとしている。福井県には15基もの原発が集中しており、以前から北朝鮮からのミサイル攻撃や船からの艦砲攻撃を受けたらひとたまりもないと心配していた。3年前に通産省の原子力発電課長と原発問題について意見交換したとき、この点を指摘したら、「それは防衛庁の責任です」と言って取り合ってもらえなかった。今後、原発建設に当たっては、原発そのものの安全性だけでなく、外部からの攻撃に対して守りやすいかどうかという観点からも検討されるようになるだろう。敦賀原電3号機、4号機の増設問題についても、何らかの影響が出てくることになるだろう。改めて、今回の事件の影響の大きさを痛感させられる。

 

2001年9月17日(月)

パキスタンのムシャラフ大統領は、米軍の後方支援の用意があると表明した。日本政府も「対テロ」同調を条件に対パキスタン制裁を解除する検討に入った。また、米軍の後方支援のために対テロ新法の作成や自衛隊の護衛艦を派遣することを検討しているという。いずれも、湾岸戦争の「失敗」を繰り返したくない政府当局者にとっては当然の措置なのだが、国民の間では、「報復行為に荷担するとは、一体、どういうことなのか」という戸惑いと不安感が広がっている。今回の時事直言に対する反応を見て驚いたのは、反米感情もしくは嫌米感情の高まりである。長引く不況から抜け出る糸口が一向に見つからない中で、冷戦終了後の米国の「一人勝ち」に対する反発が強く出てきている。アメリカは日本の同盟国であること、対米支援は日本の外交戦略の中でどのような意味を持つのか、順序立ててきちんと説明する説明責任 (accountability)が政府にもマスコミにも求められている。

 

2001年9月16日(日)

午後から、母と交代して父の介護をする。昼間は寝ていて、夜になると途端に元気が出るというパターン。ある状況の中にいると思い込んで、延々と一人でしゃべっている。どういうわけか、言葉が異様にはっきりしている。しかし、脈絡が不明なので、何を言っているか分からない。母がいないため淋しいのか、夜中に「家に帰る」と言い出して困った。朝4時半頃、疲れてようやく眠る。 病室の中は携帯がつながらないため、時々、玄関までノートパソコンを持ち出してメールを受信する。メールのやり取りの中で、色々と教えられている。インターネットに感謝。

 

2001年9月15日(土)

武生おとこ神輿に参加。12時、武生市の村上幹夫さんと集合場所の正覚寺に行く。そこで、支給されたハッピ姿に着替えて、1時半にお総社(そうじゃ)に行く。生憎(あいにく)の雨。それもひどいどしゃぶり。2時にお総社を出発。身長別に紫、オレンジ、青組に分かれて、30メートルごとに交代する。雨だというのに、市民がホースで水をかけてくる。武生市役所前で女性が担ぐ姫神輿と何度も交差する「からみ」をする。これが結構きつく、しばらくすると皆が疲れるのか、途端に神輿が重くなる。ずぶ濡れになって4時半頃お総社に戻る。5時から正覚寺で打ち上げ。6時頃、正覚寺を出て、「ヨコガワ」に行く。村上夫人の弟さんの竹田幹生さんも参加。しばらくして、村上さんの奥さんと武生市議会議員の大久保恵子さんが駆けつける。8時頃、蔵の町のバーに場所を変える。10時17分のJRで福井市に帰る。時事直言に対しては、ぞくぞくと意見が寄せられている。「平和を何で守るのか」、「同盟関係とは何か」という湾岸戦争の際に日本社会が充分消化できなかった問題に加えて、文明の衝突という21世紀型の課題が出てきて、問題が極めて複雑になっている。さまざまな切り口からの検討が必要だと改めて痛感させられる。

 

2001年9月14日(金)

米同時多発テロについての時事直言を書く。舌足らずだったこともあり、いくつか、反論が寄せられたので、補足説明したい。まず、アメリカは正義なのか、という点について。日本がアメリカを支持すべきなのは、アメリカが正義だからではない。アメリカが日本の同盟国だからである。日本が攻撃されたらアメリカに守ってもらうが、アメリカが攻撃されたときは、日本はフリーハンドを保つというのでは同盟関係は維持できない。日本が攻撃された時に、アメリカに守ってもらいたいのならば、アメリカが攻撃されたときには、できる限りの協力をしなければならない。これが同盟関係である。次に、報復は報復を招くのではないかという点について。人間社会は性悪説と性善説の二本立てで成り立っている。日本社会においても、犯罪は必ず罰せられるという性悪説に基づく司法制度が機能して初めて、性善説的な社会政策が成立しているのである。父性と母性と言っても良い。「武力による現状変更は許さない」というのが、現在の国際社会の最低限のルールである。父性でこのルールを断固として守ると同時に、母性で不平不満に辛抱強く耳を傾ける姿勢が大切ではないか。

 

2001年9月13日(木)

クリアリー(私が働いていた法律事務所)が入っていたワン・リバティ・プラザがついに倒壊した。マンハッタンを360度見渡せるニューヨークで最も美しいオフィスにはもう戻れない。気懸かりなのが、過去に取り扱った金融取引のファイルの行方である。ウォールストリートで行われる金融取引はすべてコンピュータで行われる訳ではない。金融市場には大きく分けて、株や債券を新規に発行するプライマリー・マーケットと、発行された株や債券を取引するセカンダリー・マーケットがある。セカンダリー・マーケットはコンピュータ化されているが、プライマリー・マーケットは依然として金融専門家の職人芸の世界であり、彼らのノウハウは過去の金融取引の膨大なファイルの中に蓄積されている。ウォールストリート・ローファームと呼ばれる金融専門の法律事務所のアーカイブ(記録室)には、過去の金融取引で取り交わされたあらゆる文書が保管されており、ウォールストリートの競争力の源泉となっている。こうした観点から見ても、今回のテロがアメリカ社会に与えた打撃は計り知れない。

 

2001年9月12日(水)

午後、車で2時間かけて小浜市(福井市から西に約100km)に行く。車の中からあちこちに電話をかける。クリアリー・ゴットリブ(私が働いていた法律事務所)の東京事務所の同僚にNY事務所の様子を聞く。NY事務所とはまったく連絡がつかないらしい。彼が電話で聞いた話では、NY事務所が入っているワン・リバティ・プラザは、事故の衝撃で65%のガラスが割れているとのこと。世界貿易センターの中にあるブラウン&ウッド(別の法律事務所)はどうなるのだろうなどと話す。次に、外務省の小林中近東一課長と犯人像について意見交換する。イラクが怪しいのではないかと自説を述べる。6時ごろ小浜に着く。三木尚さんが一騎当千のつわものを9人集めてくれた。最初はどうしてもNYの事件の話になる。一段落して、嶺南の将来について語り合う。原発が15基もあるのに、何もしてもらっていないという話になる。最終的に、何をしてもらうかより、何をしたいかの方が大切ではないかという結論に落ち着く。三木さんの人望がうかがえる素晴らしい方々だった。2次会、3次会を終えて、1時半にホテルに戻る。

 

2001年9月11日(火)

夜、自宅で本を読んでいたら、東京にいる姉から、「大変だからテレビをつけて」と電話がかかってきた。テレビをつけるとニューヨークの世界貿易センターが炎上している。最初、NHK衛星第一放送を見ていたが、情報があまり入らないので、スカイパーフェクトTVで現地のフォックス・テレビに切り替えた。そのうち、一つ目のビルが崩れ落ちた。しばらくすると、ペンタゴンに旅客機が突入したというテロップが流れる。ピッツバーグ近郊でも旅客機が墜落したという。続いて、二つ目のビルが崩れ落ちる。私は世界貿易センターの隣のワン・リバティ・プラザというビルの42階で働いていた。妻は世界貿易センターの中にあるバンク・オブ・アメリカで働いていた。二人とも同僚に思いをはせる。無事に避難できただろうか。明日からどこで働くのだろうか。この辺一帯は金融の中心地である。金融に携わる何万人もの人間の職場と生活が何らかの形で影響を受けざるを得ない。ブッシュ大統領の声明を聞いていて、気づいたことがある。"Terrorism against our nation will not stand." (「アメリカに対するテロ行為を見逃すわけにはいかない」)。これは、湾岸戦争の時に、父親のブッシュ大統領が出した声明の言い回しと同じである。私が覚えているくらいだから、アメリカ国民も覚えているに違いない。「アメリカは断固戦う」という決意を鮮明にするために意図的に使ったものだろう。全く、予想もつかない形で、世界は危機に突入した。日本が乱気流に巻き込まれることは間違いない。小泉内閣だけではない。われわれ一人ひとりの正念場である。

 

2001年9月10日(月)

午後から父の介護をして、そのまま病院に泊り込む。といっても、父はずっと寝ていた。痰(たん)がたまっているので、何度も吸痰してもらった。台風15号の影響で、終日、雨が降りしきる中、虫が鳴いていた。

 

2001年9月9日(日)

ドクターズーの清水さんが主催する「足長おじさんチャリティゴルフコンペ」に参加。ちなみに、清水さんは獣医ではなく、内科医。なぜ、ズーかというと、シミズのズーだそうだ。世界の恵まれない子供の学資援助を行っているフォスタープランに協力する目的で平成5年に始められ、今年で第9回目になる。昨年の寄付金はケニアのアマデオ・ムロキ君の学資援助に当てられたとのこと。一昨年、バケツをひっくり返したような大雨だったので、ドタキャンしたら大変な顰蹙(ひんしゅく)を買った。ゴルフコンペは大雨でも欠席したら駄目ということを学ばせてもらった。天気予報では雨の予想だったので嫌な感じがしていたが、昨日は真夏に逆戻りしたような快晴。パートナーにも恵まれ、一日とても楽しく過ごした。頭痛もようやく治った。

 

2001年9月7日(金)

朝からひどい頭痛で何も手につかない。私の場合、頭痛は疲れのバロメーターで、疲れがたまってくると、何かのきっかけでどうにも止まらない痛みに襲われる。午後4時頃、ついにギブアップ。早退して、自宅で休む。

 

2001年9月6日(木)

午後、父の介護。父が寝返りをうつ間に、点滴の管の接続部が外れて、パジャマもベッドもずぶ濡れになる。二人の介護士さんと3人がかりですべてを取り替える。その後、夜7時から武生市のラピュタ工房で高木ぶんどう後援会「あすなろ会」立ち上げの準備会合。虫の音を聞きながら、武生の街を歩いていると懐かしい気持ちになる。ニューヨークから福井に帰ってきてもう3年半になるが、稲の刈り入れや虫の音に気がついたのは今年が初めてである。2年程前、母に「山の新緑やそこに咲いている花の美しさに気づかない人生はもったいないと思わないかい?」と言われたことを思い出す。しばらくの間、「心ここにあらず」という精神状態だったのだろう。いつのまにか、Mindfulnessを忘れていた。

 

2001年9月5日(水)

昨年3月まで日本経済新聞の福井支局長をしていた豊川博圭さんと久し振りに会う。豊川さんは、福井支局長時代に、一つの共通番号に電話をすれば、全国どこでもタクシーを呼べるというシステムを思いつき、特許を取得したというアイデアマンである。今年2月には日本経済新聞を辞め、フットコールという会社を設立して、現在、3週間後の運行開始を目指して着々と準備中である。昨日は、京都でタクシー4000台分の契約を受注したと意気揚揚だった。福井支局長時代には、辞めるかどうか随分悩んでいたが、迷いを吹っ切って決断し、新進気鋭の実業家に見事に変身した。「フットコールの本社を福井に移転する」と社内で公言して、社員の顰蹙(ひんしゅく)を買っているそうだ。豊川さんのような起業家がどんどん出てくれば、日本経済は必ず復活する。日本のためにも、福井県のためにも、豊川さんにはぜひ成功してもらいたい。

 

2001年9月4日(火)

午後1時、執行部会。ガーデンパーティの反省を行う。出席者の最終集計は215人。200人が目標だったので、目標達成。会計上も少し黒字が出た。運営面では、チケット販売が責任者による買い取り制でなかったために、代金をすでに払っている人と未払いの人の区別がつかず受付で混乱が起きた。知らない人同士を紹介するシステムがなかなか上手く機能しなかった。会場にはもっと選挙色が強い方が良かったとの声もあったが、それではぶんどうカラーがなくなってしまう等々、活発な意見交換があった。続いて、来年初頭に県内の複数箇所で行う年賀会についての打ち合わせを行う。県内各地で実行委員会が立ち上がりつつあり、心強い。8月は、みんなで力を合わせてバザーとガーデンパーティを成功させたことで、大いに士気が上がった。やはり、成功体験の積み重ねが重要である。

 

2001年9月3日(月)

午後から病院に行って、父の介護をする。朝方、熱が出て、午後はずっと眠り、夕方になって、熱が下がり元気になるというパターンを繰り返している。日に日にやせ細っていくのが分かる。意識がないのかと思っていると、時々、まともなことを言う。「情けない。情けない」とあんまりつぶやくものだから、「そんなことないよ。お父さんは一生懸命やったじゃないか。お父さんの人生は素晴らしかったよ」と言うと、「そんなこと言われると、耳がくすぐったい」と照れていた。父のそばで時間を過ごすのもだんだん生活の一部になってきた。もっと若い頃だったら、「本業が手につかない」と焦ったと思うが、いまは、父のそばにいるのが人生の本業だと感じている。

 

2001年9月2日(日)

NHKスペシャル「緊急討論・待ったなし日本経済」を見る。株価の下落が続き、失業が急増する中で、「聖域なき構造改革」をどう進めるのか。堂々巡りの議論にうんざりして途中でやめてしまう。ハードランディングをすると決めた以上、いまさら、ソフトランディングに後戻りはできない。しかも、これまでソフトランディングを試みて、10年も無駄にしたのである。「聖域なき構造改革」の本質は、土壇場に追い詰められたときに引き出される日本国民の潜在能力を信じようということだ。幕末や戦後の混乱期もそうやって乗り切ってきた。中途半端な追い詰められ方では潜在能力は引き出されない。事態を打開するには、決死の思いで「火事場」を作るしかないのではないか。

 
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