ブンブン日記 2001年 10月

2001年10月31日(水)

午前中、年賀会用のポスターのための写真を川副景介スタジオで撮る。事務所の二人とA&Sの友廣 みどりさんと片岡茂さんが立ち会う。ところで、戸外の撮影には曇り空がいいそうだ。今日は、秋晴れだったので、あまり撮影には不向きとのことだった。しかし、曇るのを待っていられないので、企業向けの経済情報誌「カタリスト」創刊号の表紙用写真を福井県庁前の橋のたもとで撮る。黒塗りのプレジデントに乗っている人がいぶかしげにこちらをじっと見つめていた。

 

2001年10月30日(火)

21世紀の福井県の戦略を考えるために、幕末以後の福井県史を作ろうと、インターネットで検索してみた。「ふくいの歴史」という福井県文書学事課が作っているサイトを見つけたが、ほとんどの資料がアップされておらず、あまり役に立たない。結局、自分であれこれ調べながら、作ってみた。時代の変化に対応できていないのが一目で分かる。福井県政の課題に入れておきますので、改良点があったら、ご意見ください。夜7時半、執行部会。各地域の年賀会の準備状況について検討する。忘年会の日程も決まった。12月14日(金)夜7時から「チョップ」で開催。皆さん、日程を空けておいてくださいね。

 
2001年10月29日(月)

1988年から1990年まで、熊本県庁に出向していたが、そのとき、一緒に汗を流した仲間から、思いがけず、香典が郵送されてきた。この「ブンブン日記」を読んで、父の死を知ったのだという。遠くから気遣ってくれる気持ちがとても嬉しい。早速、熊本県庁で商工政策課長をしている村田信一さんにお礼の電話を入れた。夜6時半から、杉原千畝夫人講演会実行委員会。講演会まであと2週間足らずとなった。すでに協賛企業が100社を超え、出席が確実な方も500名を上回った。当日は、2000人近くの方がお見えになる見込みである。皆さんもぜひ、ご出席ください。杉原夫人は87歳とは思えない、かくしゃくとしたさわやかな方です。損得勘定に流されがちな日常生活の中で、信念を持って生きるとはどういうことか、この機会に考えてみませんか?

 

2001年10月28日(日)

箱根会議3日目。各分科会報告の後、今後の行動にどう展開するか、全体討議する。司会の李基愛(リー・キエ)さんの最初の話が面白かった。もともと、国という字は、「菊」と書いたそうだ。国という字には、「かこい」があるが、菊という字には「かこい」がない。そして、菊という字の「くさかんむり」は植物をあらわす。つまり、本来の「くに」は、「かこい」がなく、自然に親しみ、いい香りがするという。また、民という字は、旻と書いたそうだ。つまり、教養があり、明るいという。いずれも、21世紀の日本が目指すべき方向を示している。来年の7月に再会することを約束して、皆、さわやかな気持ちで御殿場を後にした。雨に曇る御殿場を後にしたのが、1時50分。御殿場、沼津、三島と乗り継いで、ようやく新幹線に乗り、福井に着いたのは夜8時半だった。

 

2001年10月27日(土)

箱根会議2日目。朝7時半起床。本当は、全員でラジオ体操しなけれならないのだが、昨夜、ログハウスで昔の仲間と夜遅くまで話し込んでいたので、パス。秋晴れの澄み切った空気の中で、目の前に広がる富士山の威容に心が洗われる。台湾人の安本さん(日本男性と結婚して日本人に帰化)が、「日本の人は気がついていませんが、日本こそ浄土なのです」と言っていた。午前のセッション、日本民際交流センターの秋尾晃正さん、国際貢献塾の伊藤憲宏さん、国際基督大学の樋口容視子さんによる問題提起。伊藤さんの「カタリストの意義と役割」が面白かった。カタリスト(時代精神の触媒としての変革者)の「カタ」とは、ギリシャ語で変化を意味し、カタリストが放つ言葉の呪性により、精神の浄化(カタルシス)にも、破局(カタストロフィ)にもつながる。日本のカタリストの系譜は、縄文時代の祝女(のろひと)にさかのぼり、こうした「まれひと」が「まろうど(客人)」となり、常人は自分はやりたくないが、やってほしいことを客人にやってもらってきた歴史があるという。黒澤明の「七人の侍」は、常人である農民が、客人である「七人の侍」を雇って、野武士退治をするというストーリーであり、人間社会の普遍的特質をよく表しているという。午後は、分科会セッション。夜7時から交流会。箱根会議の創始者であり、旧知の向鎌治郎さんに促されて、挨拶をする。続いて、ログハウスで二次会。

 

2001年10月26日(金)

第二次箱根会議に出席する。箱根会議というのは、全国の国際交流団体の集まりである。第一次箱根会議の第一回目は1988年に開かれた。その後、毎年開かれ、1997年の第10回箱根会議で、当初の使命を終えたとして、「人を啓き、地域を開き、未来を拓く国際交流の課題」という提言を示し、一旦休止の幕を降ろした。私は第一回箱根会議(1988年)に出席したオリジナル・メンバーである。当時、熊本県庁で国際交流室長(翌年、国際課長)をしていた。第二次箱根会議では、「日本人の背骨はどこに行ったのか」という問題意識の下に、どのような英知と見識を持った変革を目指すのか、討議する。1日目の今日は、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターで、外交評論家の岡崎久彦さんの講演を聞いた後、バスで御殿場の国立中央青年の家に移動する。

 

2001年10月23日(火)

日経で連載しているジャック・ウェルチ前GE会長の「私の履歴書」が面白い。エアコンや家電部門など、業界で1位か2位になれない部門は、「直すか、売るか、閉鎖するか」を迫って、官僚主義に陥っていたGEをすっかり筋肉質の戦闘集団に変えてしった。その豪腕ぶりをニューズウィーク誌に「中性子(ニュートロン)ジャック」と書かれることになるのだが、内心、かなり傷ついていたようだ。マスコミに何と書かれようと、社員にいくら嫌われようと、改革を断行したジャック・ウェルチの信念とリーダーシップには敬服する。日本を立て直すには、何人のジャック・ウェルチが必要だろうか?

 

2001年10月22日(月)

昨日に引き続いて、終日、翻訳作業に携わる。午後3時、A&Sの友廣さんが、年賀会用のポスター作成の打ち合わせにお見えになる。午後6時半からの杉原千畝夫人講演会実行委員会に出席を予定していたが、翻訳の仕事がずれ込んで、そのまま10時頃まで作業を続ける。

 

2001年10月21日(日)

終日、事務所で翻訳。翻訳は、スキルについては自信があるものの、大変なので、なるべくやらないようにしている。翻訳は、単に、「横のものを縦にする」というような簡単なものではない。対象となっている言語(今回の場合は英語)についての完璧に近い理解力と、高度な日本語能力が要求される。「意訳」という言葉をよく聞くが、高度な理解力と日本語能力があれば、「意訳」は必要でなくなる。著者の意図をそのまま分かりやすい日本語にすれば良いのである。著者の意図が読み取れないので、強引に「意訳」するのだ。翻訳は、それだけで一つの「芸」と言っても良いものだが、社会ではそれほど評価されていない。翻訳家の方が気の毒だ。いずれにせよ、一日中、翻訳して頭がウニ状態になった。鯖江の実家に戻り、父の書斎で鈴木大拙の「日本的霊性」を読む。

 

2001年10月20日(土)

午後1時、C&Companyの松永さんと一緒に福井キャノンの玉木社長を訪ねる。人には、@損得で動く人、A好き嫌いで動く人、B善悪で動く人の3種類あるが、善悪で動く人は2割であり、残りの人は、損得か、好き嫌いでしか動かないという。しかし、損得、好き嫌いは一瞬にして変わるので、善悪に基づいて経営を行わないと長期的な安定と発展は得られないというお話にはなるほどと感心した。午後4時半、誠照寺を訪ね、前発主のお裏方(奥様)と現発主にお礼をする。葬儀のあわただしさが一段落して、あらためて前発主が亡くなられた重みを感じられているようだった。鯖江の実家に泊まる。父の書斎で、父が残してくれた本を読みふけった。

 

2001年10月19日(金)

午前、大野市の斎藤さんに畑中・大野市議会議員をご紹介していただく。前田裕一さんらと共に天谷大野市長を誕生させた8人組のお一人だという。秋晴れの中、陽に当たるバルコニーでいただいた打ったばかりのおろしそばがおいしかった。夜7時から、武生文化センターで「あすなろの会」の立ち上げ総会。多くの方にご参加いただいた。「どうせ駄目な福井県」から「やればできる福井県」に変えようという話をする。父が亡くなったせいもあるのだろうが、最近、すべての基本は心の持ち方にあると強く感じるようになった。何をするにせよ、できるかどうかは誰にも分からない。「どうせ駄目」と思って取り組むのと、「やればできる」と信じて取り組むのでは、結果に雲泥の差が出てくる。小さな成功体験を積み重ねることで、「やればできる」という心の持ち方を浸透させていくのがリーダーの仕事ではないか。

 

2001年10月18日(木)

ブンブン日記のすぐ下にある「事務所の裏日記」が好評のようだ。英語を話しているときと日本語を話しているときでは、英語を話しているときの方がリラックスしていると指摘されているが、そうかも知れない。言葉を覚えた環境で、「性格」が形成されるようだ。日本語を覚えた家庭環境は、結構、厳格だから、何となく堅苦しくなるのだろう。四字熟語がよく飛び出すのは父譲りである。「あなたはことわざ辞典のような人ですね」と言われたこともある。一方、英語を身につけたのは、高校時代にアメリカにホームステイ留学したときで、ホームステイ先が若々しいスポーツマン一家だったから、ざっくばらんでユーモアも自然に出るのかも知れない。日本語で話しているときも、英語の性格にしてくれと言われているが、そんなに簡単にできるだろうか。

 

2001年10月17日(水)

米議会関係者ら29人から炭疽菌が検出され、炭疽菌不安が全米を覆っている。アメリカでは支払いのほとんどを小切手の郵送で行われており、市民生活で郵便が果たす役割は大きい。日本で考える以上に、郵便を使った攻撃はアメリカ社会に混乱を引き起こしている。インターネットでも様々なガセネタが飛び交っており、どれがガセネタか区別がつかないため、心理的なパニックに陥っているようだ。アメリカはオープン・ソサエティ(「開かれた社会」)の強さを生かして成長してきた国だが、今回のテロはオープン・ソサエティの脆弱さを浮き彫りにした。だからといって、「開かれた社会」を断じて放棄すべきでないし、アメリカも、「開かれた社会」に対する挑戦には断固として戦うだろう。我々としては、アメリカが「開かれた社会」であるがゆえの強靭性を発揮することを祈るとともに、自らの社会も「開かれた社会」にしていく必要がある。

 

2001年10月16日(火)

敦賀の慶秀さんのお父さんが亡くなられた。突然のことだったそうだ。私自身、父を亡くしたばかりなので、お気持ちはよく理解できる。同時多発テロ以来、私の周りで多くの方が亡くなられているような気がするが、単なる偶然なのであろうか。中学校の頃、鎌倉時代に末法思想がまことしやかに唱えられたと習ったことを思い出す。当時は科学が発達していなかったためだと理解したが、21世紀に入ってこれだけ常識では理解できないことが続くと人知を超えた何らかの力がはたらいているのでないかと思えてくる。頭にばかり頼らず、心を研ぎ澄ます姿勢が必要なのだろう。

 

2001年10月15日(月)

朝から終日、挨拶回り。ご挨拶に回りながら、あらためて本当に多くの方々にご会葬いただいたことに感謝する。午後4時、日米外語学院の藤田さんから、福井経営品質賞の申請書の翻訳について相談を受ける。夜7時より、執行部会。続いて、夜9時より福井市の年賀会実行委員会。来年の年賀会の戦略的な位置づけについて熱っぽい議論になった。夜12時に帰宅。

 

2001年10月14日(日)

朝10時より、武生市福祉健康センターで「福祉委員会」。福祉政策についての基本理念が固まる。「『みんなちがって、みんないい』社会の創造に向けて」。福祉政策の基本的な方向性は、@障害のあるなしにかかわらず、すべての人が自立した生活主体者になれる環境を整備する、A地域コミュニティを大切にする、B当事者の参画と決定を保障する、というもの。非常に良いものができたと思う。その後、同じ場所で、午後2時から、福祉委員会のメンバーの高畑英樹さんによる講演を聞く。障害者である高畑さんは、自ら、積極的に外で遊ぶことで、「バリアー」の存在を健常者に気づかせているという。「障害は個人に原因があるのではなく、環境させ整えば個人の生活状態に障害はなくなる」という高畑さんの主張には説得力がある。

 

2001年10月13日(土)

父が亡くなって一週間。あっと言う間の一週間だった。父が亡くなった瞬間から時間が止まってしまったかのようだ。父の葬儀の際にお世話になったお寺の方々にお礼のご挨拶に伺う。かつて、親鸞上人の輿(こし)が立ち寄ったという「車の道場」を訪れた際、タイヤがパンクしてしまい、法服姿でタイヤ交換しなければならなくなった。夜7時半から丸岡町で坂井郡連絡会議。日常生活にようやく復帰した感じだ。父の喪中に年賀会を開くことについては異論もあると思うが、父の遺志は自分の死を乗り越えて大願を成就して欲しいということなので、計画通りに実行させていただくことにした。坂井町の寺澤さん、金津町の橋本さんたち女性陣のご意見で芦原町の「グランディア芳泉」に会場が決まった。その後の懇親会では、自分が当事者だったこともあり、もっぱら介護の話になった。

 

2001年10月12日(金)

二条秀正前発主の葬儀。朝9時に誠照寺に到着。真宗各派及び他派からのご来賓の受け付け・案内役を務める。3年半前の伝統法要の時にも、同じ役をこなしたので、はまり役になってしまったようだ。お寺の世界には厳格な身分制度が残っていて、「お裏方」(夫人)とか「ご連枝」(兄弟)など、お寺の世界独特の呼称があり、見ていると面白い。前発主は仏教だけでなく他の宗教についても造詣が深く、多面的に仏教や真宗について語れる方だった。また、お人柄も暖かく、話し好きの人だったので、よく、話させていただいた。父が亡くなった後、色々とご指導いただこうと思っていたのに、突然、亡くなられて非常に淋しい思いがする。夕方4時、葬儀を終え、鯖江の自宅に帰る。夜6時、同じ町内(下新庄町)から父の葬儀にご出席いただいた方々のお宅に挨拶回りに行く。明日は、姉が東京に帰る。親子3人で父の思い出話をしていたが、ずっと父がそばにいるような気がしていた。

 

2001年10月11日(木)

朝から挨拶回り。午後、鯖江の自宅に行って、法服に着替える。誠照寺の二条秀正前発主のお通夜に清照寺の代表として初めて出勤する。発中(ほっちゅう)の着替えの間で着替えていると、父の姿が見当たらないので、「もう、父がいないんだ」と改めて感じる。お通夜そのものは短く、1時間足らずで終わった。鯖江の自宅に泊まる。

 

2001年10月10日(水)

朝8時、アイビーエージェントの藤井孝社長が突然、鯖江の自宅に訪ねてこられて、パジャマ姿で応対する。11時、4日ぶりに事務所に出勤。武生市の宮本俊さんの奥様、勝山の下道さん、富士根さんが弔問にお見えになる。たまっているメールをチェックするとともに、ホームページを更新。午後、挨拶回りに出かけて、その後、大野市の前田裕一さんのお母様のお通夜に行く。夜7時、帰宅。テレビをつけると、父の死でバタバタしている間に、米英のアフガン攻撃が始まっていた。

 

2001年10月9日(火)

朝6時、一旦、自宅に戻って、シャワーを浴びる。朝8時半、誠照寺に戻る。朝10時より誠照寺で葬儀。11時に出棺。11時40分、斎場に着く。12時半、富士屋会館でお手伝いいただいた方と昼食会。2時にお骨を拾いに行く。変わり果てた父の姿を見ると、つくづく人生は無常だと思う。3時半より自宅で初七日。5時、親族を鯖江駅で見送る。姉だけ一週間残ることになった。夜7時、家族4人で食事に出かけるが、みんな疲れきっていて、あまり食べられない。誰ともなしに父の思い出話になって、よく笑った。

 

2001年10月8日(月)

午後2時半、父の納棺。生身の父との最後の別れになる。父がこれまで一度も袖を通したことのない「しおぜ」の着物を着せる。母がいとおしそうに父の体をさすっていた。夜、誠照寺でお通夜。夕方4時半頃から人が来だして、6時前後がピーク。9時頃から本堂で集まり、焼香順と葬儀で読み上げる電報を決める。葬儀がこれほど様々な知恵と経験の集積であるとは知らなかった。夜10頃には大体の焼香順が決まったが、こんなに早く決まることはないという。そもそも親族が少ないのと、ベテランが集まっているのが良かったとのことだった。最終的に、全体の作業が終わったのが深夜1時。本当に皆さんのお世話になりました。有難うございます。父のいる本堂には私一人残った。

 

2001年10月7日(日)

朝、誠照寺派の本山である誠照寺に出向き、式務を務めていただく大心寺さんと打ち合わせ。朝から法主に葬儀の導師のお願いをしようと連絡しているが、どういう訳か連絡が取れないという。ぞくぞくと駆けつける親族の相手をするうちに、午後、大心寺さんから、「未確認情報だが法主が今日亡くなられたらしい」という衝撃的なニュースが飛び込んできた。「事実は小説より奇なり」というが、こんなことがあるだろうか。夜8時より自宅で親族のお通夜。父が元気だった頃を懐かしむ。

2001年10月6日(土)

夜10時31分、父が息を引き取る。朝、母から父の様子がおかしいと連絡を受けて、病院に駆けつけた。たまたま姉のご主人の実家の法事と重なっていたため、姉のご主人やそのお兄さん、姉の息子も見舞いにくる。人に迷惑をかけたがらない父らしく、みんなにもっとも都合のよい日を選んだかのようだ。深夜11時半姉が東京から駆けつける。父を自宅に運ぶ。あんなに家に帰りたがっていたので、無理をしてでも帰してあげれば良かったと悔やむ。深夜、皆が帰ってから母が「淋しいね」と言ったのが、ひどくこたえた。

 

2001年10月5日(金)

夜、勝山市の下道恵子さんと富士根信子さんのご尽力で、勝山市の有志の方々と「デュエット」で懇談会。京福電鉄越前線の存廃問題をめぐって活発な議論となる。勝山市民のほとんどの方が存続を望んでいるが、受益者負担の問題となると、「県や企業の負担で」ということになってしまう。@越前線再開にどんな経費がかかって、A年間の赤字額がどのくらいで、B勝山市民一人当たりの負担がどの程度になり、Cそれがどのような形で負担されることになるか、分かりやすい形で情報開示し、みんなで徹底的に議論することが必要だろう。大変有難いことに、この場で来年1月19日に開催予定の勝山地区年賀会の実行委員会を立ち上げていただいた。さらに、この日、敦賀市では「ハーバーナイトin敦賀with高木ぶんどう」の反省会。武生市では、10月19日に発足予定の「あすなろ会」の準備会合が開かれた。敦賀市には、エド・ミラーさんに代理で行ってもらった。武生市は執行部の村上さんに事務局を務めていただいている。

 

2001年10月4日(木)

武生市の府中町屋倶楽部で開かれた粋酔塾のオープニングに参加する。粋酔塾とは県内の蔵元(日本酒メーカー)の若手の集まりで、毎年一回、アンテナ居酒屋を様々な場所で一ヶ月間開いている。粋酔塾をプロデュースしている山口ちとせさんに誘われたもの。鏡割の後、座敷に上がりこんで、40種類もの地酒とともに地の魚のお刺身を楽しんだ。粋酔塾の専属歌手という趣の民謡歌手の恩地美佳さんの民謡も披露された。「梵」の加藤さんの横に座ったものだから、あっという間に何種類ものお酒を飲まされた。加藤さんは、三時間たったら完全に酔いが醒めるお酒を研究しているとのことだったが、早く研究を完成させて欲しいものだ。粋酔塾を出てからサイエンス・クラフトに立ち寄ったら、井上和治さんと竹本加良子さんに絶対運転しては駄目と釘をさされ、わざわざ井上さんに福井市の事務所まで運転してもらうことになってしまった。井上さん、申し訳ありませんでした。有難うございます。

 

2001年10月3日(水)

午後、父のベッドの横で本を読んでいたら、「高木さん、覚えてますか」と声をかけられた。見上げると、(有)福井フィナンシャル・プラナーズ社長の山田淳子さんだった。前回の知事選挙の時に手伝っていただいた方だが、その後、突然、姿を消してしまったので、どうしたのかと思っていたが、しばらく東京に行っていたとのことだった。先週の月曜日に帰ってきたばかりで、お友達のご主人が倒れられたので、お見舞いに来たのだという。東京で色々経験されたらしい。もともとたくましい人だが、一層たくましくなられたようだ。男性があれこれ考えている間に、とにかく行動する女性が増えている。

 

2001年10月2日(火)

朝8時、福井経済同友会の「新時代のリーダー像を考える特別委員会」の役員会。求められるリーダ―像をまとめるに当たり、様々なリーダーシップ・スキルに加えて、人格的なリーダーシップを強調すべきではないかという話になる。人は論理ではモーティベートされない。西郷隆盛や土光敏夫のような素晴らしい人格が持つモーティベーション能力を見直すべきだろう。午後、同じく福井経済同友会の方々と、武生市に新設された4年制の仁愛大学を見学に行く。すれ違う学生たちがみな、「こんにちは」と挨拶するのには感心した。最近の若者は挨拶しないと思っていたので、嬉しい驚きだった。禿正宣(とくまさのぶ)副学長によれば、特にそういう教育はしていないということだったが、そもそも仁愛大学が仏教のミッション・スクールであることも影響しているのかも知れない。ちなみに、仁愛大学を含む仁愛学園の禿了滉(とくりょうこう)学園長は、福井県鯖江市にある浄土真宗誠照寺派のご住職であり、同じ宗派の父も私も共々お世話になっている。

 

2001年10月1日(月)

夜、毎偶数月の第一月曜日に開催している「文堂塾」で、米同時多発テロについて話す。様々な議論が錯綜しているので、この問題を考えるための基本的な知識として、@日本の平和がどのように守られているか、A日米安保体制の仕組み、B個別的自衛権と集団的自衛権、C国連の集団安全保障の仕組み、について話す。この問題を議論するときに大切なことは、まず、日本の平和がどのように守られているかについての基本認識のすり合わせである。戦争を放棄した平和憲法によって守られていると考えるか、自衛隊と日米安保体制によって守られていると考えるかで、この問題に対するスタンスがまるで変わってしまう。昨日、話してみて感じたのは、湾岸戦争の時に終わっていると思っていた基本認識のすり合わせが十分にできていないということである。昨夜、話し終えた後、「こんな事実があるとは知らなかった」「学校できちんと教えるべきでないか」という声が上がった。神学論争に入る前に、事実をきちんと押さえておくことは重要である。

 
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