ブンブン日記 2004年 4月
(ご意見・ご感想はこちらからどうぞ)

4月30日(金)

美山町の追分、野波、川上、上薬師を回る。ほんのしばらく歩かないうちに鯉のぼりを見かけるようになった。鯉のぼりを見ると、「このお宅にはお孫さんがいる。若い夫婦がいて良かった」と思うようになった。田植えが近い。すでに水が引いてある田んぼもあるし、苗を運び出している人にも出会った。蛙の声も大きくなったようだ。久しぶりに歩くのは本当に楽しい。

 

4月29日(木)

福井市森田の浄因寺で開かれた中央仏教学院の学習会に出席する。久しぶりに出席したので、自分の勉強の遅れに愕然とする。意識的に時間管理をしていないと、あっという間に時間が過ぎていく。大事は急がねばならない。

 

4月28日(水)

昼、鯖江北ロータリークラブで自然エネルギーについて卓話を行う。今日もテクテク巡業を出来ず、何となく不完全燃焼。明日も色々用事があるので歩けそうにない。歩けることは有難いことだ。夜、テクテク巡業で撮ったデジカメ写真の整理をする。

 

4月27日(火)雨

雨ということもあり、テクテク巡業はお休み。県立図書館に閉じこもって、美山町見聞録の第一稿を書き上げる。「歩きながら書く。書きながら歩く」というリズムはとてもいい。休眠状態だった脳細胞がようやく動き出したように感じる。

 

4月26日(月)

休養日。夜、組織拡大委員会に出席。5月16日、23日に一斉に開かれる福井市の地区体育大会にどう対応するか協議する。

 

4月25日(日)

てくてく巡業をお休みして、美山町見聞録の執筆に取りかかる。美山町には全体で56の集落があるが、これまでに40の集落を回った。随分、精力的に回ったつもりでも、まだ3分の2である。この分だと全集落を回り切るのは連休中になるかもしれない。

 

4月24日(土)晴

天気晴朗なれど、冬型の気圧配置のため肌寒い。美山町の小和清水(こわしょうず)、獺ケ口(うそがくち)を回る。芦見地区の上り口に当たる地区である。獺ケ口をどう読むのか分からなくて、お子さんと散歩されているご主人に「うそがくち」という地名だと教えていただいた。

小和清水にはなぜか豪邸が多い。広大な敷地の中の昔ながらの民家もあれば、最近、建ったばかりの豪邸もある。その一方で、廃屋もあちらこちらにある。豪邸と廃屋が並存している不思議な地域である。

ところで、小和清水の入り口の足羽川沿いにうどん屋「さぬき」がある。事務所の引越しで最近、行くようになった問屋団地内の金ぴら亭が2年前に出した讃岐うどんの専門店だという。奥さんの話では、小和清水の人だけでなく、評判を聞きつけて、県内各地からうどんファンが訪れるのだそうだ。

高松出身のご主人が手打ちで打った讃岐うどんはコシがあってとても美味しい。福井県は典型的な「そば県」なのだが、おいしいうどんをお探しのうどんファンにはお勧めだ。

 

4月23日(金)雨

美山町の品ヶ瀬、朝谷島を回る。昨日とは打って変わって、雨模様の肌寒い天気だった。品ヶ瀬で「2年前にも自転車で回って来ましたね。あの時の名刺をいまでも持っていますよ」という方にお会いした。2年前は100日巡業と称して、100日間で全県を回った。美山町を回れたのは一日ほどで役場の近くを自転車で回っただけだが、それを覚えていてくれた人がいるとは嬉しい。人生で無駄なことは何もないと感じる。

 

4月22日(木)晴

美山町の大宮、縫原を回る。過去最高という陽気の中で4時間歩き回って、すっかり日焼けした。大宮を回っているうちに、ご自宅で大工仕事をされている美山町議会の高瀬信夫・副議長にお会いした。

「美山町を回ってどうでしたか」と聞かれたので、「やはり、過疎化の問題ですね」と答えると、「過疎化にお金をつぎ込む時代は過ぎた。人が便利なところに移り住むのは止められない。集落の集団移住も検討すべきだと考えている」とのことだった。

また、福井市と鯖江市の合併白紙について、「市民に対する説明責任を果たすという勇気が市長、議員の双方に欠けていた。いまは中核市を目指すべき時期だ。事業所税の問題もあるが、5年の猶予期間に対策を考えることも出来たのではないか。政治家は本当に大衆のためになることは何かを考えるべきだ」とおっしゃっていた。

 

4月21日(水)晴

美山町の椙谷(すいだに)、小宇坂(こうざか)、小宇坂島(こうざかじま)を回る。学校帰りの小学生がいっせいに「こんにちは」と声をかけてくれて嬉しくなった。

奥からお姑さんが、2階からお嫁さんが同時に出てきた家があった。階段を降りてきたお嫁さんに挨拶すると、お姑さんが「うちのお嫁さんは中国の人なんです」と言う。

事情を聞くと、2ヶ月前に結婚したばかりとのこと。「お料理が大変でしょ」と話しかけたら、「とてもよくやってくれています」と姑さん。

「日本語はどこで勉強したんですか?」と聞くと、「まだ勉強して2ヶ月です」との答え。お嫁さんの屈託のない笑顔が印象的だった。

 

4月20日(火)

美山町の赤谷、下折立、横越を回る。赤谷は3軒だけの最も小さい集落である。最盛期には41軒あったそうだが、昭和38年の豪雪、昭和46年の大火(7軒焼失)を経て、急速に過疎化の道をたどっていったという。

過去、炭焼きをされていたという平井源一さんのお話によれば、以前は炭焼きが集落の主な生計手段だったというから、炭から石油や電気へのエネルギー革命も赤谷の過疎化を促したといえるのだろう。

ところで、除雪は美山町の人にとって最大の関心事だ。行政の最大の役割は除雪と言っても良い。美山町の人に福井市との合併について聞くと、異口同音に「いままで通り、除雪をちゃんとしてもらえるかどうか心配だ」という答えが返ってくる。

美山町を歩いているうちに僕も除雪のことが気になるようになって、こんな山奥でもこの集落の3軒のために除雪が行われているのか聞いてみたら、「雪が降ると朝一番に必ず除雪してくれる。町には有難く思っている」とのことであった。さすがである。

 

4月19日(月)雨

休養日。夜、事務所で市町村見聞録(通称「てくてく巡業」)委員会。美山町巡業の反省と越廼村巡業の打ち合わせを行う。

 

4月18日(日)晴

5月から始まる越廼村てくてく巡業の準備のため越廼村に出かける。その後、素晴らしい眺望のカフェ・マーレに立ち寄り、ぼーっと海を見ていた。

 

4月17日(土)

美山町の東俣(ひがしまた)、南宮地を回る。東俣に行く途中にあるログハウスのテラスでご主人とおぼしき人が悠然と本を読んでおられるので「お話を伺ってもいいですか」と声をかけたら、にっこり笑って「いま、何もしていないからいいですよ」と家の中に招き入れてくださった。

主の山本竹司さんは定年退職後、単身、神戸から移り住んでこられたのだという。元々、幼少期に三国町で過ごしたことがあって福井県に戻ってきたが、美山町とは縁もゆかりもないのだそうだ。

いまは、毎日、一人で静かに本を読んだり、音楽を聴いたりして暮らす悠々自適の生活を送られている。中米のグアテマラにも家を建て、冬はグアテマラで過ごされるというから羨ましい限りである。

「犬も歩けば棒に当たる」というが、人間が歩くと実に様々な方との出会いがあるものだと実感する。

 

4月16日(金)

昼、福井市のあじさいロータリークラブで「ヨーロッパの自然エネルギー事情」と題して卓話を行う。経営者の方に自然エネルギーの話に興味を持っていただくにはもう少し工夫が必要のようだ。

その後、美山町に出かけて南西俣(みなみにしまた)を回る。途中、4月5日に開かれた茶飲座談会にご参加いただいた尾野俊夫さんのお宅に伺うことができた。

尾野さんご一家は大阪から嫁いでこられたお嫁さんのご両親と同じ敷地内で暮らしておられる。ちょうど、お嫁さんのお母さんの川上万里子さんがご在宅でゆっくりお話を伺うことができた。

大阪から移り住んで早10年。当初、何でもはっきりモノを言う性格が疎んぜられて、福井県が嫌いになったこともあったが、いまでは雪解けの川のせせらぎや鶯の鳴く声に四季の変化を感じることができる自分に喜んでいるとおっしゃっていた。

 

4月15日(木)

イラクで武装勢力の人質になっていた日本人3人が解放された。本当に良かった。ご家族の方も政府関係者もとにかくホッとしていることだろう。

海外でこの種の事件が起きたときに日本政府に打てる手は非常に限られている。犯人グループについての正確な情報も得られないし、犯人グループに働きかけようにも自前の手段はほとんどない。結局、考えられる、ありとあらゆる国、機関、勢力にお願いするしかない。まさしく、藁をもすがる状況に追い込まれるのである。

今回は、さらに、犯人グループに自衛隊の撤退を要求されるという厳しい条件が重なった。米国によるイラク戦争の是非、自衛隊派遣の是非は別にして、テロリストに自国民を拉致されて、彼らの要求に屈していたら、日本国民1億2千万人をテロの標的にするようなものである。政府が一貫して自衛隊の撤退を拒否したのはやむを得なかった。

こうした八方ふさがりの状況の中で、拉致されてから一週間で解決というのは奇跡に近い。報道によると宗教指導者の働きかけが効を奏したようだ。実は、誘拐事件が起きるたびに舞台裏で宗教関係者が登場する。ペルーの日本大使館が占拠されたときも、犯人グループとの交渉に当たったのはキリスト教の牧師だったと記憶している。これまでの誘拐事件で蓄積された経験が、今回、活かされたということもあろう。

拉致された3人の自己責任ではないかという声もあった。政府も海外における安全は自己責任が原則と強調していた。政府は冷たいと感じると思われるだろうが、この反対の論理を突き詰めていくと、海外の日本人を保護するためには自衛隊の実力行使もやむを得ないということになる。いまのところ、海外における安全は自己責任という原則は日本国民自らが選んだ選択といえよう。

今回の事件では、大義なき占領政策には無理があるという世論が醸成された。解放に至った事情を明らかにできないまでも、今回、日本政府が独自にとった手段がある程度、効を奏したものであったならば、それを梃子(てこ)にアメリカの占領政策に変更を迫ることも可能となろう。イラク情勢ならびに日本外交は転換点を迎えた気がする。

 

4月14日(水)

終日、事務所でたまった仕事を片付ける。

 

4月13日(火)晴

東河原を回る。道で会ったおばあちゃんが、「足羽川ダムの話が持ち上がってから、若いもんがみんな出て行ってしもうた。足羽川ダム計画がどれだけ人心をまどわせたか分からない。偉い人はそういうことをちゃんと考えてほしい」と切々と訴えていたのが心に重く残った。

 

4月12日(月)曇ときどき晴

夜、美山町の下味見住民センターで茶飲み座談会。清水正一さんのお父さんの清水清一さんから下味見地区の言い伝えや土地の事情などを詳しくお聞きする。

町役場の石田助役から聞いた集落合併の可能性についてのご意見を伺うと、言下に「それは無理です」という答え。それぞれの集落には江戸時代から伝わってきた細かな決まりごとがあり、集落を合併させるのは、市町村を合併させるより難しいという。

例えば、川一つ隔てた西河原(にしこうばら)と東河原(ひがしこうばら)では、住民の気質も区有財産の量も異なり、仮に合併を進めようとしてもお互いに合併は望まない。

では、なぜ、川一つ隔てただけで、そうした違いが出るかというと、日は東から昇るので、西河原の日照時間が長くなるのに対して、東河原は朝陰になる。日照時間が長い方がいいように思われるかもしれないが、林業には朝陰が重要な要素で東河原の森林の方がよく育つ。結果的に、東河原の方が資産持ちになり、これが住民気質と区有財産の違いに表れるとのことだった。

アメリカでも「すべての政治は地方政治である」と言われているが、政治の原点は地方政治、いや、日々の暮らしの中にあることを実感させられる今日この頃である。

 

4月11日(日)

西河原(にしこうばら)、折立(おりたて)を回る。西河原では、思いがけず、高校時代の同級生のお母さんにお会いした。「昨年の知事選のときにうちの息子が学校で一緒だったと電話をかけてきました」とおっしゃるので、詳しく聞いてみると、絵が上手いと評判だった田中博文さんだった。

高校時代からプロ顔負けの絵を描いていたが、現在では、日立製作所で工業デザイナーとして活躍されており、500系の新幹線をデザインされたというから恐れ入る(後で聞いた話では、田中さんはこのデザインを認められ宮中で表彰されたそうだ)。田中さんのあの素晴らしい感性が育った背景には、美山町の自然豊かな環境があるのだろう。

ところで、田中さんのお母さんによれば、上味見と下味見の過疎化を招いた大きな原因は足羽川ダム計画だという。将来、水没する恐れがあるということで、積極的に子供たちを福井市や県外に出したために過疎化を招いたとのことだった。

一通り回り終わって、廃校になった下味見小学校の校庭で車を停めてお弁当を食べていたら、突然、「ぶんどうさん。中で一緒に食べませんか」と声をかけられてびっくりした。声をかけてきたのは鯖江市の久保田裕之さんで、未来塾のメンバーと一緒に下味見小学校に来ているのだという。

未来塾とは鯖江市の若者が中心になって夏休みに子供たちを山の中のキャンプに連れて行く活動をしているグループで、西河原の清水正一さんに紹介されて下味見小学校を下見に来ているとのことだった。ご縁は様々な形でつながるものだと感慨深かった。

 

4月10日(土)晴

蔵作(くらつくり)を回る。昨年夏、蔵作橋のたもとで「川ガキ」(川で遊ぶ子供たち)の写真展が開かれたところだ。美しい地域である。

蔵作を一回りしたところで、ゲートボール場でバーベキューをしながら花見をしている若い家族の集まりを見かけた。「今日は」と声をかけたら大歓迎されたので、ご一緒させていただいて色々とお話を伺った。

彼らは幼なじみの仲間たちで、年に3、4回こうして野外でバーベキューを楽しむそうだ。蔵作橋のたもとはバーベキューの名所で、夏になると家族連れで過密状態になるという。最近、テレビで紹介されたこともあり、観光バスで訪れる人も出てきた。

蔵作には彼らを主力とするソフトボールのチームがあり、毎年、県大会に出場している。美山町内の他の地域からは、同じ地域の中でソフトボールチームを結成できる人材の豊富さと結束力の強さを羨ましがられているとのことだった。

素晴らしい自然と気のあった仲間たち。自然とのつながりと人とのつながりに守られて、子供たちもすくすくと育っている。自然と家族と仲間を愛し、仕事に打ち込む若い世代が台頭してきているのを知って頼もしく感じた。

 

4月9日(金)晴

田尻、高田、宇坂大谷を回る。下宇坂と呼ばれるこの地域は福井市に最も近く、恐らく、そのせいなのだろう。若い家族の姿を多く見かけた。また、美山町の他の地域と違って留守宅には鍵がかかっている。

夜、この地区で開かれた茶飲み座談会で聞いた話では、下宇坂地区には過疎の問題はなく、芦見地区や上味見地区から移り住む人がおり、人口は増え続けているという。

美山町で最も人口が多い地区ということもあり、歴代町長にはこの地区の出身者が多い。ちなみに、現在の有塚町長も下宇坂の出身である。下宇坂を制するものは美山町を制するということらしい。

 

4月8日(木)

計石(はかりいし)を回る。計石は国道158号線沿いにあり、美山町でも交通の便が良いところだ。そのためか、一度は福井市に出た若夫婦も子供が大きくなると、また、計石の実家に戻ってくることが多いのだという。同じ美山町でも地区によって微妙に状況が異なるものだと感じ入る。

 

4月7日(水)

美山町の下吉山、上吉山、籠谷(かごや)、大谷、西中、所谷、皿谷を回る。芦見と呼ばれる地域である。

この地域に来ると、携帯が通じない。自動車についているTVをつけてもよく映らない。美山町の今年度予算で、携帯用の電波塔の建設やケーブルTVの敷設が予算化されている理由がよく分かった。

西中まで上ってくると周りとは場違いに近代的でひときわ立派な建物が目に付く。ところが、何となく寒々しく、あまり使われている気配がない。近所の人に事情を聞くと、平成6年に完成して3年前に廃校になった芦見小学校だという。

子供たちが減り続けた結果、上味見小学校、下味見小学校、芦見小学校、啓明小学校の4校が啓明小学校として統合されて、残りの3校が廃校になったのである。まだ真新しい芦見小学校を見上げていると、予想以上に早くて厳しい過疎化の現実がまざまざと迫ってくる。

 

4月6日(火)

晴。美山町の西市布(にしいちぬの)、小当見(おとみ)、中手(なかんて)地区を回る。上味見と呼ばれるこの地域は谷に沿って太陽が動くため日照時間が長いのだという。また、寒暖の差が大きいので、美山町の中で最もうまいコメが採れるのだそうだ。

お天気だったので、家の前で畑仕事をしている人を多く見かけた。世間話をした後、「お子さんは?」と尋ねると、「福井市に家を構えている」という方が多かった。一人暮らしのお年寄りが多い。そのほとんどがご主人に先立たれた女性である。

「いまは、まだ、自分が何とか家を守っているが、自分が死んでからは誰も面倒を見るものがいなくなる」という不安を抱えながらの生活である。このまま、あと10年も経つと、いよいよ廃屋が増えるのは目に見えている。

若者たちの流出が続く一方で、都会から移り住む人たちもいる。中手の入り口にある萌叡塾(ほうえいじゅく)は、20年前に5人のOLが都会から移り住んでつくりあげた自給自足のコミューンである。美山町を歩いていると驚かされることばかりだ。

 

4月5日(月)

昨日と打って変わって快晴。悔しい。

夜、美山町の羽生住民センターで「茶飲み座談会」を開く。美山町に向かう途中、車から真正面に見える満月が美しかった。

ひょっとすると誰も来ないかも知れないと覚悟していたら、スタッフの方の声かけもあって8人の方がお見えになった。何かのテーマについて話すというよりも、もっぱら美山町の暮らしのあれこれについてお聞きした。

様々な問題について話が弾んだが、一貫しているのは過疎問題をどうするかという問題意識である。ちなみに、羽生地区でもっとも子供たちがいるのは、一昨日、4人の子供たちに出会った間戸(まと)ということである。その理由が面白い。間戸は羽生地区で一番の山奥だが、昔からあまり人に干渉しない自由な気風があるため、若者たちが戻ってくるという。

過疎対策というと、つい、ハード面の対策になりがちだが、大切なのは、こうしたソフト面だという話で盛り上がった。詳しくは後日UPする予定の美山町見聞録に譲りたい。

 

4月4日(日)

朝9時に新事務所に集合してから、美山町を一斉ポスティング。県内後援会から大勢の人に参加していただいた。2人一組になって担当地区をポスティングする。

天気はあいにくの小雨。すれ違う人にご挨拶しながら妻と2人でポスティングした。途中、楽々亭に立ち寄る。楽々亭とは、近年県内の多くの市町村で見かけるようになった町営の温泉施設である。昔の民家風の素晴らしい造りだ。入場料500円。夕方4時までしか開いていないのがちょっと残念。

ポスティングは約2時間で終了。今度は、午後1時から足羽川原で花見。午後から晴れると思っていたのに、あいにく雨が降り出した。雨天の場合は九十九橋の下で行うことになっていたので、九十九橋の下に行く。

九十九橋の下には我々と同じような雨天決行のグループが他に3グループいた。雨が降っていてとにかく寒い。事務所から引越しで使った段ボール箱を沢山持ってきてもらった。「段ボール箱がこんなに暖かいものとは知らなかった」と一同、感激。花見が終わる頃、雨が上がる。皮肉なものである。

 

4月3日(土)

引越し。6年前に政治活動を始めてから、5度目の引越し。大町の事務所には昨年の知事選以来、わずか一年足らずしかいなかったが、オレンジの旗やオレンジの傘など呆れるほど荷物が増えていた。

当初、引越し業者の方にお願いする予定だったが、経費節減のために身内でやろうということになって、多くの支持者の方に引越しを手伝っていただいた。

お蔭で、引越しそのものは約3時間ですんだ。これから中の片付けにどれだけかかるかは分からない。引越しをするたびに、一度も開けないままになっているダンボール箱をそのまま運ぶのは馬鹿げていると思いながら、捨てきれずに運んでいる。

問屋団地内の新しい事務所は6度目の事務所になる。過去2年間に3度も引越しているので、今度はしばらく落ち着きたいものだ。明日は朝9時から美山町の一斉ポスティングと足羽川原での花見である。あした天気になぁーれ。

 

4月2日(金)

東谷昭一さんと一緒に美山町の間戸、下薬師、仁位地区を歩く。のどかな所である。渓流に沿って、人家が並ぶ。午前中、曇っていたが、午後になると晴れてきた。4人で遊んでいる子供たちに出会った。話しかけると、弾けるような笑い声が返ってくる。

軒先にはまきが積まれている。「こんにちは」と玄関の戸を開けると、土間にはかき餅が干されている。ここには忘れていた日本の原風景がある。

しかし、廃屋も多い。過疎の現実が浮かび上がる。車を運転できなければ、近くにお店もなく不便なところだ。そのためだろう。玄関先にはヨシケイ(食材の宅配業者)の青い発泡スチロールの箱を見かけた。また、配達中のヨシケイの車とすれちがった。

 

4月1日(木)

市町村見聞録(通称「てくてく巡業」)一日目。8時半に教育カウンセラーの高田義紀さんと事務所前で待ち合わせて、美山町へ。9時過ぎに美山町役場に着いた。

まず、石田助役にお会いして、美山町が抱える課題について概略を伺ってから、有塚達郎町長にご挨拶。その後、財政を担当している高橋孝賢企画振興課長に平成16年度予算について詳しく伺った。

役場を一回りしてから、JA越前美山へ。昨日、NTTを退職して、今日から正式に勤務という伊井敏孝組合長のお話を伺った。民間会社のご出身らしく、経営者の視点からJAが抱える様々な問題を鋭く分析しておられた。JAにも新しい風が吹き出していると感じた。

準備不足のまま緊張しながら「てくてく巡業」を始めたが、美山町の皆さんに予想以上に暖かく迎えていただきほっと一安心。今日一日、お話を伺っただけでも、美山町が直面する様々な問題が見えてきた。美山町を一巡してから詳報を美山町見聞録としてUPすることとしたい。


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