ブンブン日記 2001年 12月

2001年12月31日(月)

大晦日になっても、年賀会の挨拶を考えている。途中、鯖江の実家に行って、母と昼食を食べる。ちゃんと、自分で作って食べているので、安心した。母の強さにはいつも感心させられる。午後、エドがやってきた。杉原千畝夫人講演会のビデオとお礼の手紙を持ってきた。年賀会の挨拶について、しばらく議論する。「混乱している」と言ったら、「12年、ボクシングの選手をやっていたが、試合の前はいつも混乱していた。混乱しない方がおかしい」と元気づけてくれた。自宅に戻って、ノートパソコンで書き続け、年を越して、新年の朝1時半にようやく、納得できるものができあがった。ほっとして寝る。

 

2001年12月30日(日)

年賀会の挨拶を考えながら、一日を過ごす。話したいことは山ほどあるのだが、どうやって20分でまとめようかと、毎年、この時期になると苦しむ。外国の友人からのグリーティングも届く。公私ともに活躍している姿を見ると、それに引き換え自分は駄目だなぁと自己嫌悪に陥る。夜、片町の「マリポッサ」で友人夫妻とゆっくり忘年会。雪が激しくふりしきっていた。雪国生まれのためか、この時期は雪が降っている方が落ち着く。自宅に戻って、「千一夜物語」を見る。「開けゴマ」のアリババや、魔法のランプ、空飛ぶ絨毯などの懐かしいお話がコンピュータ・グラフィックを駆使して、リアルに再現されていた。ここまで技術が発達して、ようやく千一夜物語らしい映画ができるのだなぁと思った。それにつけても、あの奇想天外な物語を思いついた太古のアラビア人は凄いとあらためて感心した。

 

2001年12月29日(土)

ようやく自分の時間が持てるようになり、年賀会で配布する資料を作成する。「魅力ある田園知識圏の創造」というコンセプト。「魅力ある田園知識圏」とは、@自然豊かで快適な居住環境に加えて、A向上心を満たせる働き場所と、B様々な出会いや刺激、がある地域と定義した。 都会で創られた経済的・文化的価値を消費するだけの地方から、自ら経済的・文化的価値を創り出し、世界に向かって発信できる地方に生まれ変わっていこうという決意が込められている。都会で創られる知は部分知であるのに対して、田園で作られる知は全体知であるという自負もある。 夜、二の宮に最近できた「錦場」で事務局と執行部の忘年会。平木さんのお友だちが始めた「錦場」は超おすすめのお店です。その後、松平さんのお宅で二次会。隣の家でお風呂に入っていた玉木さんも後から参加して、楽しい二次会になった。

 

2001年12月28日(金)

朝、福井駅前で街頭演説をしているときに、「お役所にお勤めの方は、今日が御用納めですね」と話していたら、道行く人に「仕事納め」と訂正された。いまは、もう、「御用納め」と言わないのだろうか。午後1時半から事務局ミーティング。年賀会でどんな挨拶をするか、配布資料を何にするかについて話し合う。午後から、丸岡町を回って、夕方6時に芦原町の小出歯科医院にご挨拶に伺う。夜7時半から「グランディア芳泉」で坂井郡年賀会の最終打ち合わせ。受け付けをどこにするとか、照明をどうするかとか細かく詰める。共通の目標に向かって、皆で力を合わせていると、団結心が出てくる。あとは、私の出来次第である。

 

2001年12月27日(木)

相変わらず、年賀会の出席依頼で忙しい。県内8ヵ所で開催するとなると、各地で様々なハプニングが起きるので、そのクレーム処理に追われてしまう。「苦情はお客様からの最大の贈り物」と言われるが、サンドバッグ状態になってくると、なかなか辛いものがある。政治候補者は、「動きが見えない」とか、「挨拶がない」とか、ほぼ恒常的に苦情を言われている。何を言われても、「分かりました」と言わざるを得ないため、約束を履行できないと相手方に余計、不満がたまり悪循環になる。他の候補者の方はどうしているのだろうか。

 

2001年12月26日(水)

「山楽」で開かれた福井弁護士会の忘年会に参加。福井弁護士会の行事に参加するのは久しぶりである。総勢41人のこじんまりとした会でとても楽しいのだが、一流どころの料亭とか旅館しか使わないので、参加費が高くついて、なかなか参加できない。約1年ぶりに顔を見せたが、皆さん、暖かく迎えてくれた。最近の弁護士会は、弁護士先生自らが出演して陪臣劇をやったり、何とか古い体質から脱皮しようと努力している。昨年、弁護士会の会合で積極的に発言して、顰蹙を買ったのではないかと思っていたが、「高木さんの発言は、新鮮でとても参考になる。もっと、出てきて欲しい」と言われて嬉しかった。

 

2001年12月25日(火)

忘年会の二次会で「ラビリンス」に行き、プロ歌手の中直人さんに会った。越前町出身の中さんは、もともとテイチク所属だったが、芸能界の体質に嫌気がさして、現在はフリーで活動しているという。プロだから当然と言えば当然だが、やはり、プロの歌手は上手いものだと感心した。歌の上手さというより、どこから出るのかと思うような声に圧倒された。プロ歌手というのは、こんなに声が出るのかと思った。さらには、中さんのプロ歌手としてのプロ魂にはっとさせられる思いがした。三次会でもご一緒させていただいて、色々なお話を伺ったが、様々な経験の中で到達されている心境にもうならされた。ぜひとも、中さんのような方に成功してもらいたいものだ。

 

2001年12月24日(月)

朝、吉野家で牛丼を食べていたら、突然、隣の人に、「兄貴、次もやるんか」と肩を叩かれた。驚いて振り向くと、「高木さんやろ」。「はいっ!やります。よろしく、お願いします!」。「応援しているからね。頑張ってよ!」。実は、僕は吉野家の牛丼の大ファンで、ときどき、一人で食べに来ている。いよいよ、吉野屋でも声をかけられるようになったかと嬉しくなると同時に、これはうかうかしていられないと身が引き締まる思いがした。2001年のクリスマス・イブは、吉野家記念日になった。

 

2001年12月23日(日)

風邪はまだぐずついているが、他の7箇所の準備で遅れがちになっている福井地区を集中的に回る。「あまり、動いていないじゃないか」とのお叱りの言葉を受ける。夜、田原町にある石森屋さんのショールームで恒例の「餃子パーティ」に参加する。石森さんが中国人留学生のお世話をしているうちに、何かお礼をしたいということで、中国人留学生が始めたものだそうだ。餃子パーティに参加するのは、これで3度目だが、毎年各地から同じ顔ぶれが集まる。恒例の行事だけに、あれからもう1年たったのかという感慨に襲われる。自宅に戻って、「知ってるつもり」を見る。五木寛之さんのお話だった。誰よりも早く飛ぼうとする「かもめのジョナサン」の生き方から、鳥なのに飛べなくなった「リトル・ターン」の生き方に時代は移りつつあるという指摘になるほどと感心させられた。

 

2001年12月22日(土)

昨夜、街頭演説とカラオケで声を張り上げたためか、風邪をひいてしまった。午前中、小浜市と上中町を回る。上中町で前衛的な芸術活動を展開している松宮喜代勝さんのお宅に伺う。いろいろな所にカタリストがいるのが分かり、実に嬉しい。午後4時から、敦賀市の慶秀さんのお宅で敦賀市の年賀会実行委員会。エドが福井市から駆けつけてくれた。敦賀市に住んでいるケントも出席してくれた。これを終えてから、高速を飛ばして、芦原町で開かれた坂井郡の年賀会実行委員会に出席。この頃は、風邪で鼻水は止まらないは、熱は出てくるはで、ひどい状態になっていた。9時頃までいたが、皆が見かねて、もうそろそろ帰って寝てくれということになった。お言葉に甘えて、自宅に戻って、眠る。

 

2001年12月21日(金)

高浜町に向かう。途中、上中町のプラント2、小浜市役所前、小浜市セイユー前で街頭演説を行う。かつては、繁華街であったセイユー前は人気がなく、ガラガラ状態だった。それに引き換え、郊外のショッピングセンターであるプラント2は車がひっきりなしに出入りしていた。どこの街でも、同じようなドーナッツ現象が起きている。高浜町からちょっとはずれた秋岡屋というペンションに泊まる。ログハウスの素敵なペンションなのだが、ベッドもなく、また、バス・トイレも共同というのは残念。ペンションだから仕様がないかとあきらめる。夜、高浜町の大森弘子さんたちと「のぶ幸」で夕食。人口1万人余りの小さな町なので、お客さん全員が顔見知りのような雰囲気だった。その後、皆で海辺沿いのカラオケ「Zoo」に行く。

 

2001年12月20日(木)

1月4日に開催が予定されている坂井郡の年賀会への出席を依頼するために、午前中、坂井町、午後、三国町をまわる。まわりながら、やはり、選挙運動は歩くのに限ると実感する。三国町で田中恭子さんにお会いする。田中さんは50代の部で優勝しているトライアスロンの選手である。どうしてそんなに過酷なスポーツに夢中になるのか理解できないが、完走した後の達成感がたまらないのだと言う。完走後、2日ぐらいはすべてが輝いて見えるそうだ。考えてみれば、私のやっている選挙活動もトライアスロンのようなものかもしれない。今は、瞬間瞬間に全力を集中するだけである。夜、三国町から福井市に戻って平成会(高木文堂後援会の一つ)の役員会に出席する。年賀会の対応等について話し合う。

 

2001年12月19日(水)

午前中、事務局ミーティング。午後2時より鯖江市の福岡武幸さんと一緒に鯖江地区を回る。夕方、武生市のサイエンスクラフトの井上和治さんと会う。「蔵の辻」が一新したので、それにあわせて、再度玄関を改装中であった。「蔵の辻」復活の物語を広めるべきであると話し合う。夜7時より鯖江市民交流センターで福祉委員会。福祉政策が出来上がった。福祉委員会の活動はこれで一段落つくが、せっかく出来た仲間なので勉強を続けていきたいということになった。名田庄村の中村伸一先生の話をしたところ、福祉委員会の打上げをかねて、泊りがけで名田庄村に行って中村先生の話を聞こうということになった。

 

2001年12月18日(火)

福井駅前で街頭演説終了後、勝山市に向かう。下道恵子さんと冨士根信子さんのご紹介で様々な方にお会いする。下道さんと冨士根さんの情熱とパワーには驚くばかりである。お昼に最近出来たばかりの評判のお蕎麦屋さん「八助」に行く。郵便局勤めを辞めて60を超えて一念発起したお父さんと、これを支える美しい着物姿のお嬢さんが経営しているお店である。店の造りもシックで、お蕎麦も大変おいしく、開店して3ヶ月足らずで勝山市の新しい名所となりつつある。宣伝活動は全く行っていないが、口コミで他の町からもお客さんがやってくるという。私もすっかりファンになった。福井市に戻ってから事務所全員で武生市の「泉風」で開かれたあすなろの会(武生市の高木文堂後援会)の忘年会に出席する。20人以上もの方がお見えになった。村上さんのご尽力には本当に頭が下がる。結束力の高まったすばらしい忘年会であった。

 

2001年12月17日(月)

檀家の報恩講参りをする。丁度良い機会なので、カタリスト第2号の表紙のためにお坊さんの姿で写真を撮る。報恩講参りを一人でするのは初めてである。お経を読み終わった後、蓮如上人の書かれた御文章を読み上げるのだが、檀家の方の御文章の表記が微妙に異なっているので少し戸惑った。父も檀家回りを始めた頃は冷や汗をかいていたようだが、自分も同じような目にあっている。父が生きている間にもっと真面目にやっておけばよかったと悔やむが、後悔先に立たずである。檀家回りが終わってから、近所のヤマケン・モーターズでスノータイヤに変える。軽トラックでタイヤをガレージまで運んでくれるなど至れり尽せりだった。地方経済は、やはり、お互い様の世界だなぁと痛感する。夜、母と妻と3人で食事をとる。いっぱいご馳走が出てきた。母一人だと簡単な食事になってしまうそうだ。夜9時をまわった途端にお風呂に入らされるのには閉口するが、素直に従って早く就寝する。

 

2001年12月16日(日)

午後1時より、自治会館で開かれた「市町村合併をともに考える」全国リレーシンポジウムに出席する。これまで、経費削減の観点からしか市町村合併について考えていなかったが、本来の目的は地方分権化の受け皿になる市町村の自治能力の向上にあるという総務省側の説明にはなるほどと思った。現行の行政制度においては、人口20万人の福井市役所も、人口5000人の南条町役場も仕事の中身は同じである。小さな村の役場の職員は一人でいくつもの法律を抱えて、機能不全に陥っている。企業経営においても、自治体経営においても、いかにルーチンワークを効率化し、創造的な企画開発に人員を投入できるかが企業や地域を発展させる鍵となる。現在、進められている構造改革は、官民双方における供給能力の向上と捉えることができるのだろう。午後7時から焼肉屋の「みさや」で開かれた昭和生まれの町内会「昭和会」に出席。その後、野尻さんと「とみや」でお好み焼きを食べてから、住んでいるマンションの1階にある「オアシス」で開かれていたコンサートを覗く。自宅に戻って、15年ぶりにショパン・コンクールで優勝した中国人のユンディ・リーのショパンを教育テレビで聴いた。中国の破竹の勢いには驚くばかりである。

 

2001年12月15日(土)

昨夜、忘年会で飲みすぎてグロッキー状態。午後まで寝ていて、ようやく3時過ぎに起き出した。夜、以前から楽しみにしていた横山一郎さんご夫妻との夕食会。横山さんはインターネットの専門家で、月刊「うらら」で各界の著名人との対談を連載中されている。ネットサーフィンするうちに、このホームページにぶつかって、コンタクトしてきていただいた。仕事は東京だが、ほとんどの週末は奥さんのいる福井で過ごされているという。これからの知識ワーカーのあり方なのかも知れない。しばらくして、福井市順化で歯医者をされている山本馨さんが参加。横山さんは、福井でパソコン通信でチャットをしているときに突然、歯が痛くなり、東京に住んでいるチャットの相手に山本さんのことを聞いて、山本さんのところに駆け込んだのだという。パソコン通信の仲間うちでは、山本さんはかなりの有名人だそうな。後から、皆で山本さんのお宅に押しかけて、ワインをご馳走になる。6階にあるお部屋は、ホームシアターあり、ホームバーありのオタッキーなものだった。横山さんといい、山本さんといい、21世紀的なライフスタイルを満喫されている。楽しい一夜だった。

 

2001年12月14日(金)

夜7時よりチョップで忘年会。午後、一時、雪が降っていたので困ったなと思っていたら、夕方になって降り止んでホッとした。6時半頃から人が来だして、8時頃ピークとなる。予定していた100人を突破したので、黒字になった。12月に開く忘年会もこれで3回目。1998年の知事選挙の年も開きたかったが、「開いても誰も来ないよ」と言われて断念した。落選した1999年は、20人ばかりのこじんまりしたパーティを事務所で開いた。昨年は、村井さんのジャン・ポール・ゴルティエ・ビルをお借りして、80人規模のパーティになった。今年は、ついに100人を突破した。新年早々に年賀会があるので、忘年会のための動員はしないようにしているのに、年々、参加者が増えているのは素直に嬉しい。お願いしたバンドもとても上手で、皆さん楽しまれたようだ。とても楽しかったので、また、やって欲しいという要望を寄せられた。次のイベントはガチガチの選挙モードの年賀会。通常は、ざっくばらんなパーティは夏のガーデンパーティまでないので、春頃、何か楽しいイベントを考えるべきかも知れない。

 

2001年12月13日(木)

東京から戻り、エド・ミラーさんと小浜方面に向かう。名田庄村で「あっとほーむ いきいき館」のジェネラル・マネジャーをしている中村伸一さんにお会いする。自治医科大学を卒業後、名田庄村の診療所長として赴任してきたのが、10年前。中村さんが28歳のときである。村の役場の補助金を使って購入した車いすが乗れるバスの有効活用の方法について相談を受けるうちに、「健康と福祉を考える会」の会長に祭り上げられ、8年がかりで医療・保健・福祉の総合施設「あっとほーむ いきいき館」を完成させた。理想に燃えたさわやかな青年医師が村の人たちを動かしていった様子が目に浮かぶようだ。星が降るといわれる名田庄村で、理想的な地域医療のあり方を模索し、実践している中村さんにお会いしてとても勇気づけられた。夜、小浜市で年賀会の実行委員会。エドが翌朝、早く、福井市で用事があるというので、深夜、福井市に戻る。

 

2001年12月12日(水)

昼、ニューヨークで弁護士をしていた頃の後輩のシンディと4年ぶりに会う。いまは、GEジャパンの法律顧問をしている。ニューヨークの弁護士事務所で働くのは競争が厳しくストレスが大変だったが、GEはとても家族的で楽しいそうだ。シンディによれば、9月11日の同時多発テロ以来、これまでキャリア志向だったニューヨーカーが人肌が恋しくなって、Dating Agency(デートクラブ)に殺到しているそうだ。 戦争や大災害の後は、種の保存のためにセックスに向かうのが人間の本能だという。夜、団塊の世代のニューヨーク駐在員の集まりであるベビーブーマーズ・クラブに出席する。政治について私の話を聞きたいと集まってくれたものだ。エンロンに転職した人が3人もいて、この日、エンロンが倒産したため、エンロンの話で持ちきりになった。エンロンのロゴの入ったゴルフ帽子やマウス・パッドなどのエンロン・グッズを一杯貰って帰ってきた。

 

2001年12月11日(火)

日中、クライアントとの打合せを済ませた後、30年来の畏友であり、ナレッジマネジメントの第一人者として活躍している紺野登さんと夕食をとる。紺野さんにいただくご指摘はいつも禅の公案のように意味深長である。今回は、相対的価値ではなく絶対価値を追求すべきであるとのご助言をいただいた。例えば、イチローは今年大リーグでMVPを受賞したわけだが、MVPというのはある意味で相対的価値であり、イチローは自分の中の絶対価値を追求した結果、MVPを受賞したわけである。もっともイチローにとっての絶対価値がどうのようなものであるかはイチロー自身にしか分からない。大方そのような話であった。自分にとっての絶対価値とは、後世から見た自分の評価であったり、自分がこの世で果たすべき使命ということなのだろう。深くて重い問いかけである。

 

2001年12月10日(月)

久しぶりに上京する。東京でお世話になっているクライアントやご無沙汰している友人に会うためである。思いがけず私のホームページを見て連絡をとってきた熊本時代の池田佳子さんに会う。池田さんは私が熊本にいる時に最初にお会いした方で熊本でいろんな方をご紹介いただいた大変恩義のある方である。4年前に東京に出てきて、現在は知的財産価値評価をしている会社株式会社アイ・ピー・ビーで働いているとのこと。どうやってこれでビジネスが成立しているのかは社長に聞いてほしいと言っていた。福井は大変冷え込みが厳しかったが、東京はそれほどでなくホッとした。

 

2001年12月9日(日)

南条町の文化会館で開かれた武生出身のソプラノ歌手、畑弥生さんと畑さんの先生でパリトン歌手のラルフ・デーリングさんのリサイタルに出席する。畑さんが子供の頃、音楽指導した高木真理さんの音楽スタジオが主催したもの。よくもまあ、クラシック音楽のリサイタルに南条町から500人もの方が出席したものだと驚いていたら、全県からお見えになっていたようだ。リサイタルが終わった後で、武生市のパニエで開かれた打ち上げ会に出て、その辺の事情がよく分かった。昨日の小松さんと高木裕美さんとの会食に引き続き、このリサイタルに出席してみて、福井県には予想以上に音楽愛好家というか、個性的で元気な人が多いことに勇気づけられた。無知は人生に壁を作るというが、自分の無知さ加減に呆れた週末であった。

 

2001年12月8日(土)

夜、三国のサルバトーレで、指揮者の小松長生さんご夫妻、ピアニストの高木裕美さん、水沢利栄さんご夫妻と食事をする。小松さんと知り合ったのは、約10年前、ニューヨーク総領事館で働いていた頃である。小松さんは、当時、バルチモア交響楽団の指揮者をしていた。バルチモアのご自宅に泊めていただいたこともある。オーケストラを指揮するだけでなく、文章も書き、料理も得意なマルチタレントの小松さんの話はいつも面白い。指揮者とは、管理職である作曲家と部下であるオーケストラの楽員の間にはさまれた中間管理職のようなもので、作曲家の押しつける無理難題をいかに部下と折り合いをつけながらこなすかが指揮者の腕なのだという。音楽の世界も、政治の世界も一人では何もできない。人を活かしてこそ、自分が活かされるのはどこも同じらしい。

 

2001年12月7日(金)

粟野中学で教える最後の日。短縮授業の日だった。短縮授業というのは、職員全体で30分の会議時間を作り出すために、すべての授業を5分縮めるのだそうだ。今回、4日間で7クラスの授業をしてみて、実に勉強になった。子供たちは命の塊(かたまり)だということ、教育とは魂と魂の真剣勝負だということ、 学校は社会の様相を写す鏡だということ、 クラスの雰囲気は様々な要因で決まること、等々。午後、福井市の年賀会のお願いに支持者廻りをする。夜、「うな信」で各地の年賀会の実行委員会の懇親会。総勢20名の方にお集まりいただいた。各地の幹部が顔を合わせるのは、初めての試みである。やってみて、意気が上がり、とても良かった。だんだん、後援会のムードが盛り上がってきたのを感じる。

 

2001年12月6日(木)

粟野中学で教えるのも3日目になった。最初は戸惑っていたが、だんだん慣れてきた。子供たちもとてもかわいい。粟野地区は敦賀市の新興住宅地だそうで、粟野地区だけで敦賀市の人口の3分の1が集中していて、近年、生徒数が急速に増えているとのことだ。学年担当の角田先生の話によれば、最近の子供はとにかく愛情が不足しており、学校でも教師が子供たちに愛情を注ぐように努力しているという。社会の変化の中で懸命に闘っている先生達の姿には本当に頭が下がる。

 

2001年12月5日(水)

福井駅前で街頭演説後、粟野中学に向かう。同じ中学で同じ学年なのに、クラスによってまったく雰囲気が違う。生徒の構成、担任の指導力など様々な要因によってクラスの雰囲気が変わってくるという。いわゆる問題児が一人いるだけもクラスの雰囲気はがらりと変わってしまう。子供たちは本当に生き物である。大竹睦紘校長の「学校は時代の反映であり、その時代の影響を責任をもって引き受けるのがプロの教師である」という言葉に感銘を受ける。教育問題の多くを学校に押しつけがちであるが、むしろ社会の歪みのツケを払わされているのが学校だという気がした。夜、大野で年賀会の打ち合わせ。選挙戦略についても話し合う。

 

2001年12月4日(火)

今日から4日間、敦賀市の粟野中学校で総合学習の時間を受け持つことになった。同中学校の慶秀利勝PTA会長のご紹介によるものである。朝、福井駅前で街頭演説をすませてから敦賀市に向かい、9時40分から11時40分まで50分ずつ1年生のクラスを2クラス教えた。コミュニケーションの大切さについて、(1)心のドアを開く、(2)自分から声をかける、(3)相手の話を聞く、の3つが基本であることを伝えた。子供たちは命の塊(かたまり)である。全身全霊でぶつかっていかないと応えてくれない。やはり教育は魂と魂の触れ合いだと感じた。授業後、授業を参観していた教頭先生から特徴のある子供たちについて一人一人詳しいお話を伺ったが、子供たち一人一人をきちんと把握されているのに大変感心した。教室は神聖な人間修養の道場である。夜、女性の不動産関係者の集まりであるR3研究会の10周年記念忘年会に参加する。北川頼子さんが着物姿で年季の入った日本舞踊を披露してくれた。女性たちは本当に元気である。

 

2001年12月3日(月)

朝7時半より福井駅前で街頭演説を行う。落選以来2年半ぶりの街頭演説である。3年前に街頭演説を始めた頃は行き交う人の冷たい視線にくじけそうな気持ちになったが、今回は会釈してくれたり、励ましてくれたりする人がずいぶん多く元気づけられた。また、3年前は自分の言いたいことばかり一方的にしゃべっていたが、今回はなるべく一人一人の人とコミュニケートしようとしている。なんとか意思を伝えようと思って話しかけるように話すと、頷いてくれたり、目を合わせてくれるので不思議なものである。やはり街頭演説であろうと何であろうと、一対一のコミュニケーションが基本であると教えられる。

 

2001年12月2日(日)

お昼過ぎ、社西小学校で開かれたママさんバレーの福井大会を見学。子供の頃の印象と違って、ママさんたちがずいぶん若いのと敏捷なのに感心する。自分より10歳以上若いので当たり前と言えば当たり前で、その分、自分が年をとったわけだ。その後、鯖江の自宅に行って、「雪囲い」をした。いつも、父の指導を受けながらやっていたが、今年は妻と2人で何とかやりとげた。とんかち、とんかちやっていたら、隣の福田雅道さんが誰がしているのかと覗きに来た。日が短くなっているので、2つ目が終わる頃には、もうとっぷりと日が暮れていた。久しぶりに母と夕食。我々が来るのを楽しみにしていてくれたらしく、ご馳走を用意してくれていた。鯖江の実家に泊まる。

 

2001年12月1日(土)

2002年に県内8ヵ所で開かれる年賀会用のスライドショーの打ち合わせを松本俊明さんと行う。3時間ほど、松本さんと話しているうちに年賀会で何を話したいかという内容も固まって、とても有難かった。松本さんと打ち合わせている間に、雅子様ご出産のニュースが飛び込んできた。雅子様が8年目にしてようやくご出産というのは、適齢期の日本女性の10人に1人が不妊症で悩んでいるという現代の日本社会の一面をよく表している。それだけに、雅子様のご苦悩には多くの女性が共感し、ご懐妊、ご出産のニュースを自分のことのように喜ぶという面があるようだ。夜7時半より、芦原町で坂井郡年賀会実行委員会。ゆかた姿でそぞろ歩きをしている人が多いのに驚いた。同時多発テロで海外旅行に行くのを手控え、国内旅行に振り替えているため、いま、芦原町は賑わっているのだそうだ。外部環境の変化で、これだけ消費行動が変わるものかと改めて経営の難しさを痛感する。

 
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