ブンブン日記 2002年 4月

4月30日(火)

丸岡町1日目。7時半に西洋菓子倶楽部の前で待ち合わせて、高倉さん、山下さん、南川さんのご案内で精力的に丸岡町を回った。高倉さんによれば、若手の中の良識派 (南川さん)、策士(山下さん)、武闘派(高倉さん)の組み合わせだそうだ。丸岡町は織ネームの産地として知られる。織ネームというのは、衣類の襟首のところにつ いている小さな布にブランド名やロゴを織り込む工程のことである。細い幅の布を扱 うことから、通常、「細幅」などと呼ばれている。織ネームの業界にも中国の安売攻 勢の嵐が吹き荒れている。業種転換の必要性が叫ばれているが、繊維産業は装置産業 であるだけに、償却の終わっていない設備を抱えて、なかなか身動きが取れないのが 現状だ。出口が見えない袋小路の中で経営者が抱える悩みは大きい。夜、花岡さんの お宅で商工会議所青年部の方と懇談後、花岡さんのお宅に泊まる。今日会った人は 341人。新記録である。

 

4月29日(月)

経済同友会のゴルフコンペに参加する。メンバー表を見たら、何とアウトの第一組だった。今年初めてのゴルフで、大勢のギャラリーの前でティーショットを失敗したらどうしようと心配していたが、ギャラリーは誰もいず、恥をかかずにほっとした。身も心も恐縮する経済界の重鎮の方と回らしていただいたが、皆さんとても紳士で素晴らしい方々ばかりだった。天候も雲一つない快晴と恵まれ、これでスコアが良かったら何も言うことがないのだが、スコアは惨憺たるものだった。ゴルフの話はさておき、この日の福井新聞で、私の話が載っていた。「胎動知事選」という上中下のシリーズものの最後の記事だが、「雌伏3年、変革訴え浸透目指す」というタイトルで色々書いてあった。ネガティブなことも書かれてあったが、一般的にはそう受け止められているのだなと謙虚に受け止めた。

 

4月28日(日)

栄さんと斉藤さんのご案内で本町商店街を回る。九頭竜川の河川敷に出たら、マレットゴルフをしている方に大勢お会いした。また、子供たちのサッカー大会も開かれていたので、短時間で大勢の方にお会いできた。午前一杯回ったところで、気分が悪くなって、急遽、斉藤さんのお宅で休ませてもらった。1時間ほど仮眠した後、お母様の山菜料理をご馳走になったら、元気になった。巡業に出ていると、休養と栄養のバランスを取るのが難しい。この日は、これ以上続けると倒れる気がしたので、勝山の方には無理を言って、福井市の自宅に戻って静養した。

 

4月27日(土)

午前中、猪野瀬地区を回る。途中、片瀬の仏母寺(ぶつもじ)を訪れた。勝山市を一 望に見渡せる仏母寺は曹洞宗の禅寺で無駄なものをすっかりそぎおとした清楚なお寺 である。ここで40年間、一人で参禅している和尚さんに勧められて庭に向かってしば らく瞑想した。和尚さんによれば、キリスト教や仏教に限らず、伝えようとしている 真理は一つであり、極めて単純なものだという。しかし、言葉では伝えられないと 仰っていた。夕方、鈴木さんのご案内で荒土地区を回る。蛙が鳴きしきる中で満月が 田植えを控えて水がなみなみと張られた田んぼを照らしていた。これほど美しい光景 が残っていたのかと、あたりに見とれながら夜道を歩いた。夜、「クリニカ・デ・ふ かや」の深谷さんのお宅に泊まる。病院経営に必死で取り組み深谷ご夫妻のお話を伺 う。この4月に導入された医療改革が病院経営にもたらす影響は相当深刻なもののよ うだ。

 

2002年4月26日(金)

小浜市から勝山市に戻り、本町商店街と鹿谷を回る。どこの市でも言えることだが、 中心市街地が惨めなほど空洞化している。外務省時代に講演のために勝山を訪れた際 に泊まった老舗の「花月楼」も閉業していた。地場産業の繊維産業がどんどん斜陽化 していったときに、大型の公共事業プロジェクトで地域経済の活性化を図ったツケが 一挙に出ているという印象だ。若者もどんどん勝山から出ていっていると聞く。新薬 開発で急成長している北陸製薬もアメリカの親会社の意向で100%子会社化にされると いう。100%子会社にされて、勝山からどこか他のところに持っていかれると大変なことになる。何とかしないと過疎化が進むばかりだ。

 

2002年4月25日(木)

異業種交流協会の栄喜一郎会長と扇寿司の白野さんのご案内で勝山市内を回った後、福井市北インターチェンジで妻と合流して小浜に向かう。夜7時から、小浜市の「働く婦人の家」で、「高木文堂と語ろう会」が開かれた。かわいいブンブン蜂のマス コット人形ができているので驚いた。小河事務局長の奥様が作ってくれたものだ。小浜の皆さんのご尽力で130名の方にご出席いただいた。質疑応答では、やはり、嶺北 と嶺南の格差の話になった。嶺南には嶺北に対する根強い反感がある。この理由は、福井から小浜まで車で2時間という、距離の問題に加えて、福井県誕生の歴史に不幸な行き違いがあったことがいまでも尾を引いている。1881(明治14)年に大石川県から嶺北地方が分離し、いったん滋賀県となっていた若狭・敦賀地区(嶺南)と再び一緒になって福井県が誕生した。当時、嶺南では滋賀にとどまることを望む人が 多く、福井県との合併に根強い反対運動があったと聞く。その後も鉄道や道路などの インフラ整備や投資が嶺北に重点を置かれてきたという思いが嶺南の人にはあり、こ れが嶺北に対する反感の下地になっているようだ。さらに、原発が15基も嶺南にある のにその恩恵はあまり受けていないという屈折した思いもある。質疑応答では、舞鶴と敦賀を結ぶ近敦線よりも上中と今津を結ぶリゾート新線の方が地域活性化に役立つ という声が相次ぎ、行政上の区割りにこだわって嶺北との一体的発展を無理やり進めるよりも、実体に即して、関西文化・経済圏としての嶺南の位置づけを活かしていく という姿勢が重要だと痛感させられた。

 

2002年4月24日(水)

九頭竜ワークショップを訪問する。@身体障害者と知的障害者の授産・療護施設、A老人保健施設、それに、B高齢者のデイケア・センターが合体した総合的な福祉施設である。県の福祉施設を担当していたとき、視察したヨーロッパ人に「ここは施設と いうよりも、人間の入れ物だ」という感想を言われてショックを受けた五十嵐理事長 が、「どうしたら入れ物でない『施設』を作れるか」と、適地を求めて福井県中を探 し回って、長年かけてようやく作り上げた施設である。それでも、五十嵐理事長は、「施設の中に森があるような施設を作りたかったが、お金が足りずに『森の中にある 施設』になってしまった」と嘆いておられた。自然との一体感を味わい、一人ひとりの命をいつくしむような生き方のモデルを創りたいという五十嵐理事長の思いがひしひしと伝わってきた。夜、鹿谷にある服部静子さんのお店に行く。焼肉屋さんだと 思っていたら、洒落たスナックだった。服部さんが集めていてくれた鹿谷の皆さんと 飲み、語った。その後、15年以上もお付き合いさせていただいている勝山市役所の乾章俊さんのお宅に泊まる。

 

2002年4月23日(火)

勝山地区1日目。久しぶりに福井市の自宅で過ごした後、朝10時に勝山市のサンプラ ザの駐車場で下道さんと冨士根さんと待ち合わせる。お二人のご案内で勝山市を縦横に走り回って、この日、226人の方にお会いした。夜7時から、地場産業センターで後援会の全体会議。小浜地区の小河事務局長には3時間かけて小浜市から駆けつけてもらった。最近は、事務局と執行部がうまく噛み合って、スムーズに会議も進行するようになった。昨年まではいつも堂々めぐりをしていたから大変な進歩だ。会議が終 わってから、冨士根さんのご実家である小林さんのお宅に皆でお邪魔する。戦時中に土蔵ならば良いということで建てられた土蔵の応接間でご馳走になった。11時半頃、お開きになって、小林さんのお宅で泊まる。

 

2002年4月22日(月)

朝日町の西山良忍町長を表敬訪問する。西山町長は天台宗の住職で、3年前の町長選挙で、突然、周りに担ぎ出され、本人はおろか誰も当選すると思っていなかったのに、投票日の前日に全国からの電話攻勢で情勢がひっくり返って、当選してしまったという話題の人物である。出馬要請に来た13人の支持者たちに向かって、「あんた方と奥さんは必ず票を入れてくれ。もう一人ずつ頑張って39票にして、私の票を足して40票になったらそれでいい」と言って出馬を決めた選挙で、最終的に3100票の票をいただいたのだという。お金は一銭もかけていないので、当選祝いのお祝い金も全部返したというから徹底している。政治も行政も何も知らなかったが、「住職も町長もやることは同じですね。物事の良し悪しだけ決めていれば、あとは皆さんが全部やってくれる」と達観されていた。別れ際に、「阿弥陀さんがちゃんといいようにしてくれますよ」と励ましていただいて、楽しくなった。

 

2002年4月21日(日)

福井市風尾町(旧殿下村)にある勝鬘寺(しょうまんじ)で開かれた真向法の全国大会に出席する。真向法は勝鬘寺の前々住職の弟である長井津(ながいわたる)さんが 仏典にもとづいて考案した体操である。ニューヨーク在勤中に真向法ニューヨーク支部長の多田さんに福井県人会でお会いしてから、私も真向法を始めた。数年続けていいところまでいったのだが、前回の選挙の忙しさにかまけてさぼるようになってしまった。今回、ぎっくり腰になって、もう一度始めなければと思い、巡業中に鯖江支部に訪れて、全国大会のことを聞いたので出席した。多田さんもニューヨークから駆 けつけていて、5年ぶりの再会を果たすことができた。あいにくの雨だったが、身も心もすがすがしくなるひと時を過ごすことができた。午後5時から、鯖江市のサン ドームで「ブンブン会」(後援会鯖江支部)の発会式が開かれた。鯖江の巡業も余すところ1日、鯖江の皆さんのお陰で素晴らしい巡業をすることができました。有難うございます。

 

2002年4月20日(土)

鯖江地区で数十町歩の田んぼを耕し、コメづくりをしている専業農家を訪れる。農協の組合員であるにもかかわらず、肥料や農機具の仕入れもコメの販売もまったく農協に頼らず、自力で行っている異端児である。お話を伺っていると、兼業農家の保護には熱心だが、専業農家の育成には消極的な農協の姿勢が浮かび上がってくる。農林水産省のキャリア官僚は、何とか専業農家を育成しようとしているのだが、途中の県や市町村レベルで農政の方向が逆転してしまうのだそうだ。当初、30分位のつもりだったが、お話がとまらなくなって、結局、1時間半ほどお話を伺った。「本当のことを話そうと思ったら、1日や2日では話せない」ということだそうなので、農業が抱える問題は深刻である。

 

2002年4月19日(金)

鯖江市の神明地区を回る。この辺りは山本拓前衆院議員の地盤で、県会議員選挙、衆議院選挙、自民党離党騒ぎ、知事選挙と山本拓さんに翻弄され続けて、「もう、選挙 はこりごり」と「選挙疲れ」をしている地域なのだという。確かに、どなたに会っても、山本拓さんの話になる。元後援会の幹部だったという方にも何人もお会いした。 夜、神明地区のミニ集会を開く。

 

2002年4月18日(木)

鯖江市の各地区の公民館を表敬訪問した。まず、施設の充実ぶりに驚いた。すべての公民館に体育館が併設されている。近所の中学校のクラブ活動にも使われるほか、夜は予約を取るのに競争になるという。どの公民館にも3、4人の専従職員がいた。これを無駄と見るかどうかは評価の分かれるところだろうが、掃除も行き届いているし、職員の数に見合った充実した活動ぶりがうかがえた。地域コミュニティの復活が叫ばれる中で公民館の果たす役割を再認識した一日だった。夕方、窪田さんのお宅に立ち寄ったら、勝山市から下道さんと冨士根さんがお見えになっていた。勝山市が次の巡業先になるため、引継ぎを兼ねた打ち合わせに来たのだそうだ。窪田初枝さんとは初対面だったが、お互い顔を見た瞬間から長年の友人のように打ち解けたそうだ。私とつながる縦糸だけでなく、地域間の横糸も張って、蜘蛛の巣のようなネットワークが できあがったら素晴らしい。

 

2002年4月17日(水)

鯖江市の事務局のご配慮で、午前、午後とお休みになった。終日、政治のことは忘れて、鈴木大拙の本を読んでいた。鯖江の実家に来るたびに、父が遺してくれた本を読んでいる。夜、南条町の福山真里さんのお宅で、女性だけの集会が開かれた。20名ほどの予定だったが、37名の方がお見えになった。

 

2002年4月16日(火)

大橋巧さんのご案内で織田町を回る。大橋さんは、酒伊繊維で働いていた頃、32歳で織田工場の工場長に抜擢されて、40歳までの8年間、織田町で働いたことがあるそうだ。苦楽を共にした往年の仲間の方々を訪ね歩いて、「あの頃が華(はな)だった」 と当時を懐かしんでおられた。町長を表敬訪問しようと役場を訪れたが、二階に上がる階段のところで靴をぬいでスリッパに履き替えるようになっていて、正直言って驚いた。これでは町民が気軽に役場に行けない。「お上意識」がこんなところにも表れている。午後、メガネ業界大手のサンリーブが開設した「グラスガーデン」に行く。何とか小売部門に進出したいメガネ・メーカーの試みとして業界で話題になっているものだ。お店の中の喫茶店でサービスのコーヒーを飲む間にレンズを入れてくれるという仕組みになっている。土壇場まで追い詰められて、メガネ業界が変わりだした。

 

2002年4月15日(月)

午前中、藤田順一さんのご案内で鯖江市を回る。午後、河村さんのご案内で神明地区を回る。一日に333人の方と握手するという新記録が生まれた。

 

2002年4月14日(日)

久しぶりに福井市の自宅で半日過ごす。夜、鯖江市の西光寺(浄土真宗本願寺派)で開かれた立待仏教会主催の講演会に参加する。講師は小浜市の明通寺(真言宗)住職の中島哲演さんであった。JR鯖江駅で中島さんをお迎えした後、大根屋でおろしそばを食べて、西光寺に向かった。中島さんは宗派の違いを超えて話すために原始仏教の仏陀の言葉を使って話された。自利と他利を超える仏の智恵という話であったが、時々、根源的な話を聞くと日常の雑務に流されている自分に気づいてはっとさせられる。

 

2002年4月13日(土)

終日、鯖江市河和田地区を回る。河和田は漆器の里である。漆器作りには大きく分けて、@木地作り、A背景の下塗り、B仕上げの模様塗り、の3工程があるが、町全体がこのいずれかの工程に従事している。河和田全体で年間90億円の売上があり、主流が旅館用のプラスチック製の食器である。内田プラスチックの内田栄時社長(29歳) のお話を伺ったが、これまでと同じプラスチック木地を作っていても駄目だと考えた内田さんは、紙と同じように燃えるプラスチックを技術開発した。これからインターネットを使って全国に営業展開すると目を輝かせていた。漆器の里に若きベンチャー の旗手が誕生する日が待ち遠しい。

 

2002年4月12日(金)

鯖江市5日目。眼鏡工業組合の元専務理事である大橋巧さんのご案内でさまざまなメ ガネ関連会社を訪れた。フクオカラッシは、螺子(らし)と呼ばれるメガネのネジの専門メーカーである。完成品を作らず、特殊な部品の専門メーカーになることで、国 際的な競争力を身につけた。福井めがね工業は18金の金縁メガネの専門メーカーである。金縁メガネにフォーカス(集中)することで、280名の従業員を抱える業界トップクラスの企業に成長した。マーケットは同社が長年かけて作ってきた国内マーケッ トだけだが、中国からの競争はないという。中国市場の成長を見越して、中国への輸出を準備中だそうだ。福井銀行から来られた山本正徳総務部長の見識の高さと従業員の素晴らしい応接には感動した。眼鏡光学出版の川西晶子支局長を訪ねて、逆に取材を受けることになったが、川西さんの豊富な知識と業界に対する深い愛情に感心した。中国からの安売り攻勢にあえぐメガネ業界の中で幾筋もの曙光が見えた日だっ た。

 

2002年4月11日(木)

鉄工所の(株)福岡の朝礼に出席。朝礼で、福岡武幸社長が、「やる気のないものは去れ」「やる気があっても技術のないものは勉強しろ」と檄を飛ばしていた。終日、福岡社長と笠島さんのご案内で鯖江市内と越前町を回る。メガネ会社をたたんで、社長さんの趣味のそば打ちを本業にした「そば道楽」で昼食を取ったが、結構繁盛していて、「一つの方向性なのかなぁ」と思った。夜、「車の道場」でミニ集会。「車の 道場」は、親鸞証人が流罪で京都から越後に護送されているときに立ち寄ったことから名づけられたもので誠照寺が発足した道場である。鯖江市の夜景を眺めながら、杉の木立から吐き出される新鮮な空気を吸い込むと心身ともにリフレッシュする。その後、福岡さんのお宅で若者たちと飲み会。福岡さんのお宅に泊まる。

 

2002年4月10日(水)

鯖江市3日目。朝7時から8時まで、鯖江駅で通勤する方にご挨拶する。午前中、窪田初枝さんのお友達とお茶会をする。午後は、外国法事務弁護士としてどうしてもやって欲しいという仕事があって、福井市内の事務所で時間を過ごした。夜、鯖江市の文化センターで行なわれている「やんしき踊り」の練習に顔を出してから、私が顧問を している「座・夢つつじ」の「よさこいイッチョライ」の練習を見に行った。「やん しき踊り」の担い手は60代から70代の男女、「よさこいイッチョライ」の担い手は30代から50代の女性である。「踊り」には人をやみつきにさせる魅力があるようだ。

 

2002年4月9日(火)

鯖江市2日目。鯖江市と武生市は目と鼻のところにあるのに、住民の気風はまったく異なる。武生市が歴史と文化の街なら、鯖江市は企業家の街である。以前は、メガネ枠の生産で全国の9割近いシェアを誇っていたが、ここ数年、中国の安売り攻勢を受けて壊滅状態に陥っている。にもかかわらず、皆、めげていない。あの手この手を駆使して、必死に生き残りを図っている。独立の気概は旺盛なので、知識ワーカーの数を増やせば、新たな展開が可能かも知れない。こうした考えから、鯖江市が第三セク ターの「さばえいきいきサービス」を立ち上げて、中高年の知識ワーカーを公募して地元企業に派遣するサービスを始めた。実績は、まだ5,6件と少ないが、政策の方向性としては興味深い。ぜひとも成功して全県のモデルになってもらいたいものだ。

 

2002年4月8日(月)

鯖江市1日目。7時半から2つの会社の朝礼でご挨拶させていただいた後、高校時代の同級生である窪田隆之さんご夫妻のご案内で鯖江市を回る。準備が行き届いていて、4時までに154名の方にお会いすることができた。その後、1週間ぶりに福井市内の事務所に戻って、福山さんと合流。足羽山の大久保茶屋で開かれていた「246会」の花見に参加する。桜はもう散ってしまっていたが、「花より団子」の楽しい会だった。 ほとんどが20代から30代の若者が中心で、福井にも元気な若者がいることが分かって安心した。それから、また、鯖江市に戻って、宇野清一郎さんのお宅に伺う。宇野さんのお宅に泊まる。

 

2002年4月7日(日)

日米外語学院の協力を得て、武生市生涯学習センターで英会話教室を開催する。といっても、私は見ているだけ。参加者全員を楽しませながら、学ばせる日米外語学院の先生方のスキルにはいつも感心させられる。夜6時半から、お清水庵で、武生市の市町村見聞録の打ち上げを行う。皆、やっと終わった開放感というより、「大変だっ た。疲れました」という顔をしていて、申し訳ない気がした。しかし、武生市に対する理解は確実に深まった。武生市の皆さん、本当にどうもありがとうございました。

 

2002年4月6日(土)

午前中、何もしないでホテルの部屋でのんびりした。午後2時から、南公民館で女性 たちだけの集会が開かれた。「保育所があるのならば、高齢者を預ける老託所があっ てもいいのではないか」「幼稚園と老託所を一緒にすると、幼稚園の先生の負担も減 るし、老人たちもいきいきする」など女性ならではの意見が続出して、なるほどと感 心させられた。夜、武生市内の金剛院で大阪から講談師を呼んで寄席が開かれた。 「道元禅師一代記」という真面目な演目だったが、結構、面白かった。子供の頃、祖 父がラジオでよく講談を聞いているのを、「あんなものどこが面白いんやろ」と思っ ていたが、大人になってから聞くと、言葉のリズムが実に心地よい。自分でもやって みたくなった。

 

2002年4月5日(金)

小学校、中学校時代の同級生の片山恵子さんと一緒に武生市内の国高地区を回る。片山さんは高校を卒業後、武生市内の呉服屋さんで修行を積んでから、独り立ちして呉服の小売をしている。一軒一軒歩き回って売っているためか、国高地区のほとんどの人を知っているのには驚いた。子供の頃からパワフルだったが、さらにパワーアップした感じだ。夜、武生文化センターで「あすなろの会」(武生市の後援会)主催でミ ニ集会を開く。10年程前に東京都議会で「マリ子」旋風を吹き起こした三井マリ子さんがお見えになっていたのでびっくりした。集会後、久しぶりに事務局メンバーと打ち合わせをする。武生パレスホテルに泊まる。

 

2002年4月4日(木)

明城さんのお宅で朝食をご馳走になってから、朝7時から8時まで武生駅前で通勤客の皆さんに総勢11人でご挨拶した。その後、午前中は村上幹夫さんのご案内で武生市内を回り、午後から今立町の椿原町会議員のご案内で今立町を回った。今立町は「和紙の里」と呼ばれている和紙の産地で、初めて和紙をすくところを見た。驚いたのは、「自分の手でもの作りをしてみたい」と全国からやってきた11人もの若者が和紙作りの携わっていることであり、まだまだ、希望者がいるのだという。町を回っている途 中、成願寺のご住職をご紹介されたが、何と奥様が日野中学時代の恩師の嶺山先生だった。嶺山先生は当時、大学新卒の英語教師で、大変な意気込みで我々に英語を教えてくれた。中学卒業以来、実に32年ぶりの再会だった。ご主人の竹内明さんは仏教大学で教育学の教授をされている方で、古今東西の哲学・宗教に通暁されている博覧強記ぶりには心底恐れ入った。

 

2002年4月3日(水)

市町村見聞録3日目。午前中、明城準一郎さんのご案内で武生市内を回る。午後、大久保恵子さんとバトンタッチして広瀬地区、池ノ上地区を回る。この地域は昔から瓦屋さんの多いところである。不況になると、三州瓦の安売り攻勢が強まり、さらに売上が落ちるというパターンになるという。三州瓦は、@大量生産による規模の利益、A越前瓦と比べて焼く温度が1200度と100度低いためコストを下げられるのだと言う。ただし、強度が落ちるため雪に弱いと言う難点があるのだそうだ。夜、農家高齢者創作館でミニ集会を開く。25名ほどがお見えになった。その後、明城さんのお宅で懇親会を開く。そのまま明城さんのお宅に泊まる。

 

2002年4月2日(火)

市町村見聞録2日目。今日から6日間で武生市と今立町を回る。斎藤さんのお宅で朝食をご馳走になってから、問屋団地に向かう。昨日に引き続いて晴天。桜が満開である。朝早くから会社の周りを掃除している会社員。日野川の河川敷で犬の散歩をしている人。生活者の視点で眺めると、いつもとは違った光景が目に飛び込んでくる。問 屋団地の会社にご挨拶に伺っても、昼と朝では空気が全然違う。地元の人のお宅に泊 まりこんで、その地域の生活に直に触れると、これほど違うのかと驚かされる。この 日は、武生市内の商店街を中心に回った。商店街の空洞化はどこでも深刻な問題である。県全体の都市計画の基本的な考え方を経済的効率性一辺倒のものから別の理念に変えない限り、中心市街地の空洞化に歯止めをかけることはできないのではないかと感じた。武生市の商店街で面白いのは、昔ながらの餅屋や駄菓子屋がそっくりそのまま残っていることだ。ろうそくとお線香だけを売っているお店もあった。まるでタイムスリップしたような感覚に襲われる。こうした「時代村」的な経験を売り物にした街づくりも検討に値するのではないか。

 

2002年4月1日(月)

「ぶんどうの市町村見聞録」(別称:100日巡業)の第一目。朝7時から8時まで南条駅前で通勤客の皆さんにご挨拶する。南条町の後援会の方が8人参加してくださって、夜の集会のチラシを配った。この駅から高校に通ったのは、もう30年以上も前のことだ。あの頃は、皆、自転車で駅まで来たものだが、いまは、ほとんど全員が車で送られてきた。それから南条町の役場、JA、商工会館、福祉センターと挨拶してから、南条町の全集落を手分けして案内してもらいながら回った。春らしい陽気だったので、皆、畑に出ていた。畑の中まで入り込んで、握手しながら回った。やはり地元 はありがたいもので、どこに行っても暖かく迎えられた。夜、中央公民館で集会を開 く。今回は、これまでよりも中学時代の同級生が多く来てくれた。素晴らしい初日だった。夜、大満足で武生市に向かう。お総社の横の斎藤さんのお宅に泊まる。

 
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